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40代からの「老い」という冒険:『NHK100分de名著 ボーヴォワール 老い』

私には90歳になる祖母がいる。祖母は建屋は別に、同じ敷地内に住んでいる。90歳にもなると、もちろんできないことも増えてきて、物忘れも激しくなって、さっき言ったことを忘れてしまったり、まったく違うように記憶したりする。そんな祖母をつぶさに観察していて、「老い」について考えている。「老いる」ということはどういうことか。「老い」を受け止めるということ、また受け止められないというのはどういうことか。

「老い」を単純にそしてネガティブに考えるのではなく、客観的に、かつ冷静にプロセスとして見つめることで、「よりよく生きる」ことも実現できると考えている。

▼ 老いという冒険

・身体の仕組みからは想定外の延長期間

人の寿命は長くなった。その分「老い」というプロセスも長くなっている。寿命が長くなったスピードに対して、人の身体的機能、認知機能はそこまでの大きな変化は伴っていないように思う。死が50歳や60歳で迎えられていた時代から、90歳を超えても生きることも珍しくない今を考えると、後半の30年は身体的機能や認知機能を使う予定ではなかったところを使っているように、私には見える。祖母は肩の関節の軟骨がすり減っているらしく、痛いと言う。他人事としては、肩の軟骨も90年も使う予定ではなかったから、すり減ったとき…なんていう想定がなかったのだろうと思ったりする。

・「老い」とともに歩むということ

バーバラ・マクドナルドが、高齢者だって「七十歳、八十歳、九十歳がどんなものか発見する過程にいる」(『私の目を見て』)と言ったように、老人たちは老いという新しい冒険に乗り出しているのです。それは、認知症になることを含めて、です。だから、生きていいのです。役に立たないからと厄介者扱いするのではなく、役に立てないと絶望するのでもなく、私たちは老いを老いとして引き受ければいい。

『NHK100分de名著 ボーヴォワール 老い』(103ページ)

これはこの本を読んで、一番心に残り、かつお気に入りになった部分だ。寿命が急に長くなった反動なのか、副作用なのか、私たちには「老い」という体験が用意されるようになった。正直、私は40代だけれど老いを感じられる。それは体力の衰えであったり、頭の回転が鈍くなったと感じることだったりする。そして、老いについて考える。

ただ、老いについて今から考えることは「このように老いよう」と準備をすることではない。今しか感じられない老いと、老いに対する考えや思いがある、それらを感じようとするに過ぎない。それが、老いとともに歩むこと、老いという冒険に乗り出すということなのだ。

もしかしたら、順調に生き続けれいられた10年後、ますます老いを感じるようになったとき、40代の自分が書いていることを読み直して「フッ…甘いな」と思うかもしれない。「よく考えているな」と過去の自分に勇気づけられることがあるかもしれない。それはそのときになってみないと分からない。でも、それまで老いを、見ないように、避けるようにして、何も発見することなく、70代、80代を迎えて、老いという冒険を放棄することは非常に残念なように思うのだ。

▼ 無自覚に老いる

人は案外無自覚に老いているように思う。当たり前に、老いようという心意気があるから老いるのではなく、自覚しようがしまいが時の経過の中でそうなるものだから、自覚が追いつかない場合がある。Twitterかなにかで読んだのだけれど、人が老害化するのは30代〜50代があまりに一瞬で老いる心の準備ができていないギャップの中から引き起こされるのでは、という意見があった。

発達理論をつくりあげたアメリカの心理学者エリク・H・エリクソンによると、「成熟/老化には、生理的、心理的、社会的、文化的という四つの次元があ」ると言われている。

  • 生理的:身体に現れる老い(歯、眼、女性なら閉経…など)

  • 心理的:精神的成熟

  • 社会的:会社の中での定年など

  • 文化的:孫ができたら「おじいちゃん」「おばあちゃん」になる、家族カテゴリー上の変化

確かに、電車で急に席を譲られて「あ、私ってそういう年齢なんだ」と気付かされたとか、それならまだしも「年寄り扱いするのか!」と怒鳴られたという話や、「おばあちゃんと呼ばれたくないから、孫には(名前)ちゃんで呼ばせている」とか、そういった話を聞く。生理的、社会的、文化的な老いは勝手に向こうからやってくるけれど、心理的な老いは自分からの働きかけが必要であり、この成熟がきちんとできていないと生理的その他とのギャップが生まれる。

わたしは高齢者介護を研究テーマにしている関係から、高齢者の方々とお付き合いがありますが、さる高齢の方に「わたしが高齢者の研究をしてわかったことがあります。それは、年齢と成熟には何の関係もないことです」と申し上げたら、「その通りです」と笑っておられました。

同上(19ページ)

笑っておられたこの方は、きちんとした自己認識ができているからこそ、笑うことができたのだと思う。女性か男性かは書かれていないけれど、女性の雰囲気で言えば「ほんとよね、私もまだまだ精神的にはしっかり成熟してないわ。身体はしっかりおばあちゃんになっているのに(照)」というかんじで、ペコちゃんのようにペロッと舌を出しているような、そんなお茶目さも感じる。精神的に成熟することは、一生涯続けていくことで終わりのないことだと思っている。だからこそ、そんなお茶目さも持ち合わせながら、磨き続けたいな、と思わせてくれるエピソードだ。

▼ なぜ「老い」を受け止められないのか

・老いからくる自己否定

心理的老いがもっとも遅れるということは、人は自分の老いを自認できないことを意味します。老いを受け入れられない。

同上(20ページ)

私が子どもの頃の祖母は力が強かったが、今は重たいものが持てない。すると「こんなこともできなくなって、情けない」とよく言う。そして私が少し台所仕事をぱぱっと済ませると「自分だって昔は、もっとなんでもパキパキとこなせたのに」と言っている。内心、50歳も年齢の違う孫である私と比べられても、と思う。祖母の、自分自身の記憶はいつでも、最も体力があり、認知機能もはっきりしていて、物事の処理能力もバリバリあったときの自分だ。

高齢者の否定的アイデンティティは、実は差別意識とも関係しています。私は次のような言い方をしています。「加齢という現象は、すべての人が中途障害者になることだ」。(中略)
中途障害者と先天的障害者の決定的な違いは、前者には障害がなかったときの自分の記憶があることです。そうすると、中途障害者になった人は、他人から差別を受ける前に自分自身を否定するのです。「ふがいない、情けない私」と。これを自己差別と言いますが、第三者による差別より、自己差別はもっと厳しくつらいものです。高齢者が味わっているのはそれです。自分の現実を受け入れられない。生理、社会、文化、心理のなかで、心理的老化がいちばん遅くなるのは、変化した自分を受け入れられないという自己否定感がそこにあるからです。

同上(21ページ)

祖母を観察していてよく思う。祖母を一番傷つけているのは祖母自身だな、と。重たいものを持てない祖母を、誰も責めない。よく漬物を漬けていたから今でもたまに漬けるとき、漬物石が重たいからやってあげるよ、と周りはよく言っている。けれど、彼女は頼まない。そして怒る。「こんなに重たいものを持ち上げられないのに!」一度声をかけたら怒ったように言われたのでこちらもカチンと来て、数日後にみんなでお茶をしているときに「この間、こんなふうにキレられたんだよ〜」とネタにしてみた。そうしたら、祖母自身が言っていた、「あなたに怒ったつもりはなかった、できない自分に腹を立てていた」

・「自分を受け入れる」は言うは易く行うは難し…は分かるけれど

祖母が若いときには「自分を受け入れる」などといったメンタルを扱うことはなかっただろう。だから仕方のない、起こりうる出来事が起こるべくして起こっているようにも見える。しかし、必ず老いる自分を、自分自身がずっと死ぬまで認められず、四六時中否定をして生きていくことはなんと苦しみに満ちているだろうか。

私自身、若い頃は自分自身が嫌いだったし、「自分を受け入れる」ということがどんなに難しいことかは分かるつもりだ。だからいきなり自分を受け入れろと言われてもできない気持ちも分かる。祖母はおそらく老いた自分を100%受け入れて死ぬことはないだろうと思う…でも、可能性はきっとゼロじゃないだろう。そして自分を振り返ってみたときに、今から、自分をありのままに見つめて、その自分を受け入れるということを繰り返していくことはできるなと感じている。祖母の今を受け入れることは、未来の私を受け入れることでもあるとも思っている。

私は今、祖母には「できなくなるのは当たり前。昔はもっと早くに死んでいたから体験しなかっただけ。肩の軟骨だって90年も使うようには進化していない。できないのが当たり前なんだ」と口を酸っぱくして伝えている。今では少し「できなくて当たり前よね」と言えるようになってきた。そして「やって」とも言えるようになってきた。それでも十分な変化だ。

▼ 老いにはネガティブもポジティブもない

わたしは今も「老いても若々しくいましょう」とか「老いても前向きに生きましょう」などとは口がさけても言いたくありません。なぜなら、老いとは誰もが抗えない衰えの過程だからです。老いは誰にも避けられません。なのに、なぜその過程を否定しなければならないのでしょうか。

同上(7ページ)

80歳になっても挑戦をしていて…という類のニュースをある一定のタイミングで目にするように思う。あぁ年を重ねてもそうやって生き生きと生きて、チャレンジをして素晴らしいなと思っていた。その褒め言葉として、老いても若々しいとか、老いても前向きだという気持ちは私にもあった。それが「違う!」と否定されたこの部分は非常に衝撃的だった。

高齢女性に「あなたはほかの高齢女性とは違って、楽しいし、根性があって、生き生きしてますね」などと言うことが、その女性をほめていると思ってはいけません。もしその女性がそれをほめ言葉として受けとめるとしたら、あなた方は高齢女性を拒否することに手を貸したことになります。(中略)高齢女性にむかって、「お丈夫ですね。わたしたちより有能ですね」などと言ってはいけません。これはあなた方の思い上がりであるばかりか、その人が年より若く見えることにあなた方が感心していることを示します。それは、年を感じさせるようなことをすれば彼女をけなすようになるのです。(B・マクドナルド&C・リッチ『私の目を見て』寺澤恵美子ほか訳、原柳舎)

同上(96ページ)

確かにどの年代でも万能な褒め言葉のひとつとして「お若いですね」という言葉がある。自分自身が言われて嬉しいかというと、全然そんなことは以前から思っていなくて(あまり言われないからかもしれない)「なぜ若いのが褒め言葉なんだろう」と自分自身は思いつつ、他人に対しては年齢の話になったとき「え〜!全然見えないですね!お若いですね!」と発言することは憚らなかった。その言葉に、老いをけなす意味合いが含まれていることを指摘されてハッとした。確かに、おっしゃるとおりです…。

特に日本は、若いほうがいい、若いほうが素晴らしいという価値観が蔓延している。老いは老いであって、それ以上でも以下でもない。その年齢だろうがどの年齢だろうが、チャレンジすることは素晴らしく、自分にとって生き生きと、自分にとって普通に前向きに生きていくだけで十分なのだ。わざわざ「○歳にも関わらず」「他の高齢者と違って」なんてことをつける必要はない。

老いはネガティブでもポジティブでもない。老いは老い。そう言われるとそうだ。

▼ 老いと人の価値

老いからくる自己否定もそうだし、老いを単純な老いと断定できない気持ちはどこから来るのか。それを乗り越えるヒントは、個人でも手が届くところにもあるとは思っている。しかし同時に、個人で取り組むのとはまた別に、社会として取り組まなければならないことにも原因は潜んでいる。それは、根底に、社会の中にこんな価値観が根付いているからだ。

  • (人や周りの)役に立たなければいけない

  • 価値がなければいけない

  • 価値を生み出さなければならない

  • 人に迷惑をかけてはいけない

人を生産性の有無で差別したり、そういったことは以前から行われているし、そこから引き起こされた事件もある。相模原市の施設「津久井やまゆり園」で45人の入所者らを殺傷した被告とホームレス支援のNPO法人「抱樸(ほうぼく)」の理事長が接見したという記事で、奥田理事長はこうおっしゃっている。

 「『意味のある命』や『意味のない命』があるのではない。『命に意味がある』という価値観を、この社会に取り戻さないといけない」

西日本新聞『「命に意味」価値観取り戻せ 相模原殺傷の被告と昨夏接見 「抱樸」の奥田理事長』

老いによって、私の、そしてあなたの生産性は確実に低下する。それでも価値ある人間になろうとすることが生きやすい世の中なのか、それとも、何者かになろうとするのではなく命そのものに価値があるんだと認められる社会が生きやすいのか、は明白ではないだろうか。

▼ おわりに

人の発達では、成長が終わり、成人となった次は老年が来る。2022年から、成人年齢は18歳になった。そこで成人が完了したとは思わないけれど、それにしても、人生が80年も100年もある場合、ほとんどの月日が老年期だと言ってもいいようにすら思う。その間、ずっと私は「老いという冒険」を続けている。赤ちゃんは、昨日までできなかったことがふと今日できるようになったりする。老年期は長い分、じわりじわりと変化をする。そんなじわりとした変化にも目を向け、耳を傾けながら、老いさらばえたいと今は思う。数年後は、見ざる聞かざる…如く、目をつむる、耳を塞いでいるのだろうか。それも私の老い方のひとつなんだろう。


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