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お金と価値と人と:『あたらしいお金の教科書』

高校の授業でお金の授業がスタートするらしい。それも「資産形成」で。

文部科学省が2022年度から高校の授業に「資産形成」の内容を導入することを決定した。具体的には、公民科と家庭科に株式や投資信託といった金融サービスに関することを学ぶ。他にも、電子マネーなどのキャッシュレス決済や仮想通貨、金融商品のリスクとリターンなど、具体的な題材も取り扱うそう。

これを知って一番最初に思ったことは「え?いきなり資産形成について??いきなりキャッシュレスや仮想通貨??」という疑問だ。

私はどちらかと言うと、通貨は国が発行しているものだから、国の信用があってこそ価値があるのであって、国がなくなったらただの紙切れだよ、とか、1万円札そのものには1万円の価値はないんだよ(製造原価は20円くらいと言われている)とか、インフレとかデフレとか、そういう基本的なことから教えてもらえるほうがいい気がする。(まぁ、それらが基本的なのかどうかは分からないけれど…でもいきなり金融商品やキャッシュレス、仮想通貨よりは…と思うのは私だけ?)


先日『あたらしいお金の教科書』で読書会(対話会)を開催した。

この本は、先月出版されたばかりなのだけど、著者・新井和宏さんが、そんな金融教育に危機感を抱いて、教科書にしてもらおうという意図を込めて出版に至ったそう。(新井さんについてご存じない方は検索してみてほしい。お金の本を出版するのにしっかりとしたバックグラウンドと信念の両方を兼ね備えている方だ)

参加のみなさんのおかげで素晴らしい場になって、この本に書かれていることを超えて、「お金」に関していろんな話になった。いろんな気づきをいただいて、終わったあとでもいろいろと思ったことがある。

▼ 人の価値の尺度

ある方が、一部の大学生の感覚として、バイト=お小遣いの延長であり、1時間いい子でいたら時給がもらえるという感覚があることを教えてくれた。その場のまとめとしては若い人たちにも「あなたも価値を生み出しているんだ」「お金をいただけるのはあなたも価値をうみ出した証拠だ」と伝えたい、そう実感してもらえたら…とのことで、だいたい同じ意見のようだった。

ただ、私は、それは一部賛成であり、反対な部分もある。なぜならこんな偏りも含んでいると思うから。

自分が価値を生み出すことができたという証拠がお金だ、人々からの感謝の印だ、というのは、お金をいただく抵抗を排除するには有効だろう。そして、価値を生み出そうという気持ちを盛り上げ、自己肯定感を高めるためには分かりやすくもある。でも、そうやって高めた自己肯定感は「これだけ稼いでいる自分は素晴らしい」ということにつながらないだろうか。そして自分が素晴らしいだけならまだしも、それがどんどん膨張していって「稼いでいない他人は価値がない」ということにつながらないだろうか。

ちょっと前に、巷でメンタリストのDaiGoさんがいろいろ炎上していたようだ。私には、彼の今回の発言、表現の仕方もまた、お金=人間の価値尺度を図るものと思い込みすぎている象徴のように見える。彼にとって、お金で見える化される生産性が人間の存在価値を図る尺度の大部分であり、その結果、極論を述べているのではないか。

ちなみに、ここでは、彼のこれまでの発言すべてに焦点を当てるわけでもなく、人格に焦点を当てるわけでもない。あくまで今回の発言内容のみを考えたい。あの発言内容は許されるものではないからといって、彼が過去に発言したすべてが間違っているとか、彼の存在すべてが間違っているということは、私には言えない。彼の発言がすべて素晴らしいと思っているわけではないし、すべて間違っているとも思わない。ゼロサムではない。

今の世の中の風潮、流れとして、人が過ちを犯したとき、過去すべてや人格そのものも否定される傾向にあるように感じるけれど、そういう流れに惑わされずに、人柄の好みは置いておいて、あの発言についての批判がされるべきだし、私にとってもあの炎上から学べることがある。


今回、ここで考えてみたいのは「なにも生み出さない人は存在価値がないのか?」ということ。

そう聞かれると、知識として、理性としてはもちろん、そうではないと答えることができる。でも、もしかしたら、こんなこと、これに似たようなことを一瞬でも思ったことがあるのではないか。


・年収で人の優劣を感じてしまうときがある。
・年収1億の人と年収100万の人だと、年収1億の人のほうが素晴らしい気がしてしまう。
・年収1億の人の言うことのほうが真理に近いのではないか。

・価値を生み出していないとダメだ。
・価値ある人間にならないといけない。価値ある人間になりたい。

・社会的地位のある人や実績のある人の言い分を、自分で考えることなく、地位のある人が言っていることだから、と受け入れてしまう。

昔からの偉人たちが「私とは?」「私の存在意義とは?」と考えてきているのでその問いや価値を生み出したい、見出したいと思う気持ちは人間の根源的なものでもあるかもしれない。でも、その評価基準を生産性、目に見えてわかりやすいお金という尺度だけで見てしまうとやはり歪んでしまう。

私たちはそこまで、お金に支配される必要があるのだろうか?

価値を生み出さなければいけない、生産性がなければ価値がないと必死に頑張った人が、お金という尺度の中で結果を出し、ほら見たことか!とさも正論のように、その信念を垂れ流す。その実績や権力に目がくらみ、また、経験のない者たちが感化され、たしかに言う通りだと思ってしまう。正論のようにその信念を引き継いでしまう。そういうことが起こっていないだろうか?

▼ 価値ってそもそも何なのか?

すべての人には価値がある。●●な人は価値がない。ここで示される「価値」とは一体何なのだろう。私が思う「価値」とは何なのだろう?この本の以下の部分が飛び込んできた。

さて、マルクスは、「商品」には2つの顔があると指摘しています。1つは、「使用価値」という顔です。
「使用価値」とは、人間にとって役に立つこと(有用性)、人間の様々な欲求を満たす力です。水には喉の渇きを潤す力があり、食料品には空腹を満たす力があります。マスクにも、感染症の拡大を予防するという「使用価値」があります。「使用価値」こそ、資本主義以前の社会での生産の目的でした。
しかし、資本主義において重要なのは、商品のもう一つの顔、「価値」です。「商品」になるためには、別の何かと交換されなければなりません。交換されない椅子は、座れるという「使用価値」を持った、ただの椅子です。それに対して、「商品」としての椅子は、市場で一万円の値札がつき、100個の卵や20枚のシーツなど別のものと同じ価格で交換されるわけです。けれどもその際、椅子や卵の「使用価値」は異なっています。卵と椅子、どっちが役に立つでしょうか?お腹が減っていたら卵かもしれませんし、お腹いっぱいで仕事をしなければいけないときには椅子のほうが役に立ちそうです。「どっちが役に立つか」と使用価値を比較しても一向に交換ができません。何か別の「この椅子は卵100個でちょうどいい」と双方が納得する「共通した基準」で比べることができて、はじめて交換が成立します。その共通する基準が、「価値」なのです。
つまり、物が商品となって交換される際には、お互いに等しい「価値」を持っていることになります。そしてこの価値は、その商品を生産するのにどれくらいの労働時間が必要であったかによって決まる、というのがマルクスの「労働価値説」です。
「この椅子はおじいさんが大切にしていた、我が家で価値のある椅子」という思い出や愛情など個人的な重要性も、日本語では「価値」と表現しますが、マルクスの用語とは異なるので、『資本論』を読む場合は、注意してください。
価値も使用価値も、言葉が似ているので混乱しそうです。でも、まったく別物である事は、空気のようなそれなしに人間が生きることのできない使用価値の大きなものが無料である一方で、ダイヤモンドのように使用価値の小さなものが、非常に高価であることからもわかるでしょう。空気は人間の労働なしに存在するので「価値」はありません。一方、ダイヤモンドの採掘には、多くの労働が投入されるので、「価値」が大きくなるのです。
(100分de名著『資本論』テキスト、28ページ)

マルクス用語で言う「使用価値」「価値」というものを紐解いていくと、「価値」には本来の機能以外のもの多分に含まれているのかもしれない、それは本来の機能から見れば余剰なものと言えるかもしれないと感じる。私たちは普段「使用価値」をすっかり置き去りにして「価値」にばかり翻弄されているのではないだろうか。なんでもない物でも付加価値をつけるから高く売れる…そういうことから、付加価値が素晴らしいものだと思いすぎていないだろうか。

そして、上記では日本語が含む「価値」とマルクス用語の「価値」とが異なることが指摘され、普段何気なく使っていて分かったつもりになっている「価値」について、思いがけなさがあった。私の中でその定義は非常に曖昧ではないか。さらには、私がつかっている「価値」という言葉と誰かがつかう「価値」という言葉は若干意味が変わってきているかもしれない。

私たちが日常的に使う「価値」という言葉や「すべての人には価値がある。●●な人は価値がない」そういう人たちの示す「価値」が、それぞれに様々な含みを持っていることに気づくだけで、違った見え方がするのではないだろうか。                                                                                                                                                      

▼ 富、そして豊かさとは

そんなことを考えていたら「富」についてこのような記載があった。

そもそも「富」とは何でしょうか。「富」を表す一般的な英語はwealth です。これは金銭や有価証券、不動産など、貨幣で計れる財、金額として表せる財がイメージされる言葉ですよね。(中略)
ドイツ語の原語で「富」は「ライヒトゥーム(Reichtum)」といいます。reichは英語のrich、日本でもカタカナ語として「リッチな」などと使いますね。これも狭義には「リッチな人」などお金持ちのイメージになりますが、味わいや香りが「リッチ」とも言うように、何かが「豊潤・潤沢である」(アバンダント、abundant)ことも意味します。
例えば、きれいな空気や水が潤沢にあること。これも社会の「富」です。緑豊かな森、誰もが思い思いに行憩える公園、地域の図書館や公民館などがたくさんあることも、社会にとって大事な「富」でしょう。知識や文化・芸術も、コミニケーション能力や職人技もそうです。貨幣では必ずしも計測できないけれども、一人一人が豊かに生きるために必要なものがリッチな状態、それが社会の「富」なのです。(100分de名著『資本論』テキスト、18ページ)

価値には一人ひとり異なる定義があるし、さらにそれが「富」という言葉についても同様だ。富はお金以外でも、コーヒーのCMで耳にしそうな「リッチな香り」「リッチな味わい」という表現でもつかわれている。「リッチな味わい」と言われて、たいていの場合、あ〜お金持ちみたいな味わいなのかな〜なんて想像はしない。(リッチな味わいの場面を創り上げるときには、貧しい状況ではなく、豪華なセッティングであったり、潤沢な様子でお金持ち感を演出はするだろうけれど)味わいが豊かなんだろうな、ときちんと認識できている。

リッチな△△の場合、△△が豊かであることや、△△にはお金以外のものが当てはまる場合があること、言い換えればリッチなのはお金だけじゃないことを、私たちはなんとなくかもしれないけれどすでに知っているとも言えるかもしれない。


▼ 問題点とそこから脱出するために

価値を生み出す=お金、お金を稼げている=価値を生み出している証拠、という図式に、私たち大人が洗脳されすぎてしまっている。それに囚われすぎている。だから、お金を稼げていないから価値がない、多くのお金を稼いでいる人が価値が高く安い賃金を稼いでいる人は価値が低い、と思い込ませてしまっているんじゃないか。

正直、誰しも「生産性=どれだけお金を稼いでいるかが人間の価値を図る尺度だ」と思い込まされている被害者の一人ではあるし、同時に自分の中に少しでもそう思う部分があるとしたら誰もが加害者でもある。その思い込みを垂れ流してしまっているのだから。だからこそ、ひとりひとりの、その思い込みからの脱却、その当たり前からの脱却が必要になってくる

改めて今一度、認識をしたい。

人は誰しも価値がある。それが意味するものは「存在」する価値であり、貨幣で図れる意味でもなければ余剰を生み出すものという意味でもない。憲法で「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあるように、保障されるべき部分がある。存在価値は、誰かに存在すべきでないと言われるものや評価判断されるものではない。これは基本中の基本で、ベースになるもので、自己肯定感を高めるのはこの認識を相手にも、自らにも育むことなんじゃないだろうか。

そして、生み出すことができる「価値」というのは上記以外の部分になる。学生さんにもっと創造性を発揮してほしい場合は、価値創造の「能力」を持つことを自覚してもらうこと。創造性の能力を発揮することで、貨幣で図れる価値や余剰を生み出す価値は2倍にも10倍にも無限に膨れ上がらせることができることを認識してもらうことであり、「存在」とは別の「価値」であることを明確にすべきではないだろうか。


▼ 補足:『あたらしいお金の教科書』他の本との違い

最後に、考えたことはこの本がきっかけだったけれど、あまり内容に言及しなかったので、他の本との違いを考えてみた。

今までの、稼いだり増やしたりするお金の本というと、たいてい「自分のお金」もしくは自分の家庭のお金である「家計」を示す。自分のお金を増やすには、自分のお金を貯めるには、自分のお金をつかうには…。

時間軸も、今現時点と、自分の数年後、数十年後の自分の生きている未来までしか含まないことが多い。だがこの本は、自分のお金だけじゃなくて、生活圏とか、周りの人、他者も関わってくる。そして、時間軸も今とちょっと先の未来だけではなくて、その先の先の未来や過去もずっとずっと遡る。そんな、長い時間軸や、広い範囲を通して「お金」について考える人は少ないかもしれない。だからこそタイトルに「あたらしい」とつけられている。

誰も一度も考えたことがないのか、というとそうでもなくて、考える人によっては何も新しさがない、今まで考えてきたけれど?と思う人もいると思う(私もどちらかと言えばそうだった)だけれど、この本をもとに誰か他人とお金についてすり合わせをしてみると、自分の思い込みや囚われに気づけたりするだろうし、私もこの本をきっかけに話し合えたことで、新たな視点を獲得できた。結果、オススメです。

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