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仕事ってなんやろ?:『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』

転職も何回か経験していくつかの業種・職種、そして会社員もフリーランサーも体験してきた。就職活動をしていた頃の「仕事ってなんやろ?」という感覚と、今の「仕事ってなんやろ?」という感覚は若干変わってきている気がする。そして、時代としても、変わってきている気がする。

この本を初めて知ったのは、NHK「100分de名著『資本論』」の回を見たときで、ほんの少しだけ紹介されていたに過ぎないのだけれど、インパクトは十分だった。「クソどうでもいい仕事」という単語を聞いただけで、どこか頭に思い当たるフシがあるような、そんな気がした。

「ブルシット ・ジョブ」とわたしの呼んでいるものは、その仕事にあたる本人が、無意味であり、不必要であり、有害でもあると考える業務から、主要ないし完全に構成された仕事である。それらが消え去ったとしてもなんの影響もないような仕事であり、なにより、その仕事に就業している本人が存在しないほうがましだと感じている仕事なのだ。(22ページ)

一部、NHK「100分de名著『資本論』」での会話を抜粋したい。

・なぜこれが生まれるのか?資本主義の中、どんどん効率的になっているのに
利益を出すためにできるだけ資本家たちは労働者を働かせたい。どんどん働かせようとする中で、ついには意味のない仕事をでっち上げてまで労働者たちを束縛して働かせないといけないようなところまできている

・どういう仕事がこれに当たるのか?
広告業、コンサルタント、投資銀行…などが挙げられている。例えば、歯ブラシの宣伝でモデルの歯を白くする作業をしている人がいる。いくらモデルの歯を白くしても、歯ブラシの性能はまったく変わらないことに作業する人も気づいている。口紅にしても、パッケージングにすごくお金を割いているけれど、口紅の品質は1ミリも変わらない。むしろ、その宣伝でこの口紅をつけないとブスだ、ということに加担していることに、やっている労働者たちも気づいている。世界中の労働者たちから『私の仕事もブルシット・ジョブだ!』という声がすごく届いて、世界でブームになっている。

広告業、コンサルタント、投資銀行…と聞くと「あぁいいところにお勤めですね〜」と言っておいたら無難かな、という気持ちが成り立つような、そんなイメージがあるのに、ブルシット・ジョブ=クソどうでもいい仕事、だと?…と思うと同時に、広告の例はものすごくしっくりきた。確かに、どう宣伝するかは売上を上げるために必要だし特別な知識やノウハウが必要だからすごいとも思うのだけれど、それに大金をかけていたり、そのことに大量の労働力が割かれているのはどうなんだろう。もっと違う使い途はないのかと思う。興味を惹かれて読んでみることにした。

▼ ブルシット・ジョブとは

念の為、正確に「ブルシット・ジョブ=クソどうでもいい仕事」がどう定義されるのかを改めて記載したい。冒頭の簡単な説明でOKであれば、この部分は飛ばしてもらっていい。

最終的な実用的定義= ブルシット ・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。(27ページ)

冒頭で紹介した文章は前半の文章だけが簡単に説明されている。例えば、マフィア(日本だと反社会的勢力と言ったほうが身近なのだろうか)はブルシット・ジョブに当てはまりそうなのだけれど、「とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」の部分があることで、反社会的勢力はブルシット・ジョブではないことが分かる。なぜなら、反社会的勢力は取り繕うことをしないから。つまり、本人たちが「自分たちは社会の役に立っている」とうそぶくことはないだろうし、そう振る舞おうとしないだろうから。

ブルシットであるためには「取り繕い(プリテンス)と現実とのあいだに、ある種のギャップがなくてはならな」くて、「これは語源の上でも意味のあること」であり「『ブルシッティング』とは、不正直の一形態なのだ」ということだ。

殺し屋家業のようなものや、詐欺や盗みのような犯罪行為などをブルシット・ジョブと呼ぶのではなくて…という意味合い、そこに含まれた、曖昧さとか取り繕わなければいけないかんじとかが、どうやらクソつまらなさに含まれるようだ。ブルシット・ジョブとか、私とかけ離れた世界にあるのではなくて、なんだか一気に身近に感じた。


▼ 私は「仕事」を正当に評価できているのだろうか?

NHK「100分de名著『資本論』」の中で紹介されていたとき、「広告業、コンサルタント、投資銀行…」と聞いたとき、高給な仕事ばかりだなぁと思った。なんとなく、それらの仕事についていると、カッコよさだったり、その企業に入ると堂々と名刺を渡したくなるような、そんなイメージがある。同時に、過酷な感じも伝わるけれど。

でも、同じように過酷にも関わらず薄給の仕事も場合もある。挙げられたものはなぜ高い給料だろうと納得しているのだろうか、なぜそれが当たり前になっているんだろう、と初めて疑問が湧いてきた。

たとえば、わたしたちの社会では、はっきりと他者に寄与する仕事であればあるほど、対価はより少なくなるという原則が存在するようである。くり返せば、客観的な尺度を見つけることが困難である。しかし、なんとなく感じとるためのかんたんな方法はある。ある職種(クラス)の人間すべてがすっかり消えてしまったらいったいどうなるだろうか、と、問うてみることである。かりに看護師やゴミ収集人、あるいは整備工であれば、もしも、かれらが煙のごとく消えてしまったなら、だれがなんといおうが、その結果はただちに壊滅的なものとして現れるだろう。教師や港湾労働者のいない世の中はただちにトラブルだらけになるだろうし、SF作家やスカ・ミュージシャンのいない世界がつまらないものになるのはあきらかだ。ただ、プライベート・エクイティ〔特定の企業の株を取得し、その企業の経営に深く関与して、人員削減などによって企業価値を高めた後、売却をすることで収益を得る〕CEOやロビイスト、広報調査委員、保険数理士、テレマーケター、裁判所の廷吏、リーガル・コンサルタントが同じように消え去ったとして、わたしたちの人間性がどのような影響をこうむるのかは、わたしにはあまりはっきりしない(いちじるしく改善するのではないかと疑っている人間は数多い)。にもかかわらず、もてはやされる一握りの例外(医師)を除いて、その原則は驚くほど当てはまっている。(7ページ)

なぜ、生活にとってなくてはならないことや、それが失くなってしまうとたちまち私の生活が困って生きていけなくなることに関わる仕事が、薄給で過酷だったりすることに、私は納得してしまっているのだろう。なり手が少なくて、それをしてくれる人が尊敬されたりするのではなくて、極端に言えば「そんな仕事…」と軽んじられるような状況を見て見ぬ振りをしているんだろう。

なぜ、なくなっても私の生活は1ミリも変わらなさそうな仕事が高給だったり、「すごいですね」ともてはやされ、そしてそれに憧れる人がどんどんその仕事の人気を押し上げ、優秀な人がそこに流れるような状況に納得しているんだろう・・・。もちろん、いろんなことは大なり小なりつながっているので、1ミリも変わらないことはないだろう。でも、命にまでは関わらなさそうじゃないか・・・?

なんだか「そういうものだ」と今まで何の疑問にも思わなかったものが、どんどん不思議に思えてきた。そしてこれは、コロナ禍で浮き彫りになった部分もある。

さらに『リベラシオン』紙に寄稿された最近のエッセイでは、次のように述べられている。
……わたしたちが今回の危機を通して深く実感することになったのは、今日では、最も必須の労働の大部分は、古典的な意味で「生産的」なものとは言えない---要するに、それまで存在していなかった物理的対象を作り出すことと結びついたものではなくなっている、ということだ。
今日の必須の仕事(エッセンシャル・ワーク)のほとんどは、何らかの種類のケア労働であることが明らかになった。他の人びとの世話をし、病人を看護し、生徒に教える仕事。物の移動や修理、清掃や整備に関わる仕事。人間以外の生き物が繁栄していけるための環境づくりに取り組む仕事。(418ページ)

新型コロナウィルスが流行りだした頃、未知のウイルスに多くの人がビクビクしていた頃にニュースになっていたことのひとつに、職業差別があった。病院関係者の子どもに、学校や保育園、幼稚園に来ないでほしい、というものや、私自身、身近に聞いたもので「運送業をやっている家庭に、集まりに来ないでほしいと言っておいた」などと堂々と他人に話す人の存在だ。

いやいや、病院関係者の人たちが尽力してくれているから、罹患した人も回復することができる。子どもを預けなければ出勤できない。その人が病院勤務を休むということは医療従事者の数が減り、ますます病院にかかれない人が増えてしまうことになぜ気づかないのか。人々が外出を控え、通販は爆発的に増えた。外出しなくても届けてもらえる安心を享受しているのに、運送業を否定したら矛盾につながることには気づかないのだろうか。いや、私は通販は使わない?いやいや、それでもスーパーなどに行ってモノは買っているはずだ。届けてもらったものを、近場に買いに行っているだけのモノは多い。物事は単体では存在していない、つながっているんだ。あなたの命にも関わることでは…?

私たちの生活を整えてくれる、あらゆる人たちに感謝すると同時に、正当に評価していない状況と、正当に評価する意識の変化が必要と感じた。

あと、学校の先生についても強く思う。私の子どもの頃は先生の、気分のいいときは怒らないけど自分の都合で強く怒ったり、ダメと言ってみたり、そういうのが大嫌いだった。みんながみんなそうじゃなかっただろうけど、そんなふうには見られなかったので、尊敬する先生も好きな先生もひとりもいなかった。だけれど、先生が過酷な状況にいることはよく見聞きするし、実際に非常に大変だと思う。その中でも子どものことを一生懸命に考えて、新しいことにも挑戦しようとしてくれている先生方に仕事をする中で出会ったこともあり、頭が下がる。

子どもをいかに教育するのか、大人として、学校に任せきりの部分があるのに、もっと評価されるべきじゃないだろうか。もっとなり手が殺到して、いろんな意味で優秀な人も集まるような、もちろん年収がいいとか勤務体制とかも整備されて、そこから子どもたちのことを思ってくれる人、教育とはどういうことなのか大切なことを目指してくれる先生があふれるような状況にしていけないのか。そういう職種なんだと意識を変えていくこと、それは外側の私たちの意識から変えていくことも必要なんじゃないだろうか。教育に清貧を求めているのはおかしい。

▼ 私の仕事はブルシットジョブなのか…?

いくつかブルシット・ジョブの例が挙げれていたけれど、該当する職種についている人には気分が悪いんじゃないかと思う。これまではちやほやしていたのに、この機会に、ほら見たことかと言わんばかりに外側から「あなたの仕事はブルシット・ジョブですよ」ということはできない。なぜなら、定義をもう一度思い出すと「その仕事にあたる本人が」というフレーズがある。

ところでわたしは、こうした議論がただちに異論にぶつかるだろうことは了解している。「どの仕事がほんとうに「必要」だなんてどうしてあなたにいえるんですか?そもそも「必要」ってなんです?あなたは人類学の教授らしいけど、それってなんのために「必要」なんですか?」というわけだ(実際タブロイド紙の読者諸氏の多くは、わたしの仕事こそ不要な社会的支出そのものだと受け止めているだろう)。そして、あるレベルにおいては、これはあきらかに真実である。社会的価値の客観的な尺度など、ありはしない。
自分は世の中に意味のある貢献をしていると確信する人間に対して、本当のところきみは貢献なんかしていないよとあえて語るつもりは、ここでは毛頭ない。だが、自分の仕事が無意味なものだと本人が確信しているならばどうか。(6ページ)
注意深い読者諸氏は、あいまいさがひとつ残されていることに気づかれたかもしれない。その定義が、ほとんど主観に依っているということだ。わたしはブルシット ・ジョブを、意味がなく、不必要で、あるいは有害だと働き手のみなしている仕事だと定義している。だがわたしは、その働き手の見方は正しいとも考えている。わたしは、この働き手の主観がある現実に対応していると想定してるのである。まさしく、このような想定を行うことが必要なのである。(28ページ)

ブルシット・ジョブを知ったからと言って、当てはまりそうな職種の人に「あなたの仕事はブルシットだ」と言うのは全然意味が違う。

この本の、このブルシット・ジョブという言葉の流行のポイントは、「仕事の価値を再評価すること」であり、評価する枠組みそのものに疑問を抱き、そのことに「自ら気づくこと」「自ら認識すること」が非常に大きなポイントなのではないか。


私自身、前述の通りいくつかの職歴を経験して今に至るのだけれど、上記の職種に該当しなくても振り返れば会社員時代、それも結構大きな会社に所属していたとき「あぁ私の仕事、ブルシットだわ」と思っていたフシがある。この仕事、何のためにするんだろう?もちろん、もっと視座高く、全体像が見えたらその仕事の意味が見えてきたかもしれない。私の技量が足りない部分もあっただろう。だけれど、なんとなくの慣習で意味はないのにやってしまっていて、あたかもそれが大事な仕事のように幅をきかせていたり、そのときは会社に洗脳されているから大事なことだと思っていても、会社を辞めて外に出て改めて今「あれは無意味だった」と思う仕事内容はある。無意識にブルシットじゃない仕事を求めて転職したり、独立したようにも思う。

この本で定義されているブルシット・ジョブは「無意味であり、不必要であり、有害でもあると考える業務から、主要ないし完全に構成された仕事」だけれど、主要じゃなくても含めば、小さいものでブルシットな業務は私の経験した中でもいくらでもある気がした。それだけまみれているということなんじゃないか。そのことに、自らが気づいていくことで、歪みなく仕事を評価できるようになったり、自分自身もまっすぐに仕事ができるんじゃないか。そしてそれが周りに振り回されない、唯一の手段なんじゃないだろうかとすら思う。

▼ ブルシットから抜け出すということ

100年くらい前からテクノロジーの進化によって労働が楽になる!という希望的観測があった。

しかし、労働時間が大幅に削減されることによって、世界中の人々が、それぞれに抱く計画[プロジェクト]や楽しみ、あるいは展望や理想を自由に追求することが可能になることはなかった。それどころか、わたしたちが目の当たりにしてきたのは、「サービス」部門というよりは管理部門の膨張である。そのことは、金融サービスやテレマーケティング〔電話勧誘行、電話を使って顧客に直接販売する〕といったあたらしい産業まるごとの創出や、企業法務や学校管理・健康管理、人材管理、広報といった諸部門の前例なき拡張によって示されている。さらに、先の数字は、こうしたあたらしい産業に対して管理業務や技術支援やセキュリティー・サポートを提供することがその仕事であるような人びとをすべて反映するものではない。ついでにいうと、多数の人間がその時間の大半を仕事に費やしているがゆえに存在しているに過ぎない数々の付随的な産業(飼犬のシャンプー業者、24時間営業のピザ屋の宅配便)も反映されていない。
これらは、私が「ブルシット ・ジョブ」と呼ぶことを提案する仕事である。
まるで何者かが、私たちすべてを働かせつづけるためだけに、無意味な仕事を世の中にでっち上げているかのようなのだ。そして、謎(ミステリー)があるとしたらまさにここなのである。資本主義においては、こんな事は起きようがないと想定されているのだから。(4ページ)

いくつかの仕事を特定し、そこに従事していることを否定するのではない。その仕事に就いている労働者の側が批判されるべきではない。そういう次元の話をしているのではなく、そういう仕事を生み出している側があること、ある一定の枠の中で私たちが思い込まされている可能性があること、そっちに意識を向けよう、ふと疑問に思おうよ、とこの本は言っているんじゃないか。

また、自分自身を振り返ってみても、全体としてはクソどうでもいい仕事とは思っていないけれど、ところどころにクソどうでもいい作業が混じっていることもあった。「これは仕事なんだから」と言ってしまえば思考停止になる。ときには「無意味な仕事をでっち上げられているんじゃないか?」そんな疑問を持つ余裕や、視座の高さを提案されているのかもしれない。

でも、ブルシットだと断定するだけでは意味がない。じゃあ、何があればブルシットになるとか、何がなければブルシットになるとか、その違いはなんなのか。

現在使われている英語では、しばしば単数形の「価値(value)」と複数形の「諸価値(values)」とが区別される傾向にある。金(きん)の価値、豚バラ肉の価値、骨董品の価値、デリバティブ金融派生商品の価値などというときには、単数形の「価値(value)」が使われるのに対し、家族、宗教道徳、政治理念、美、真実、尊厳などにかかわるばあい、複数形の「諸価値(values)」が使用される。基本的に、経済的事象が俎上にあげられるときには「価値」が語られる。その経済的事象とはなにかというと、通常、対価が支払われる仕事、ないし金銭取得を主要な動機とする行動にかかわる人間の努力全般を意味している。「諸価値」が語られるのは、これが該当しないばあいである。(266ページ)

結局また価値の話になってくる。以前の記事「お金と価値と人と:『あたらしいお金の教科書』」や「読書メモ:『人新世の「資本論」』」でも言及した「価値」という言葉。やっぱり、資本主義の世界の中で「価値」が膨張していて、改めて再定義することが必要なことを強く認識する。ここの言葉でいうと、「価値(value)」に重きを置きすぎて、「諸価値(values)」を軽んじすぎているんじゃないか。本当に「価値」って一体なんなんだろうね?

▼ ”やりがい”とか”こころざし”とか

先日ネット記事で「”やりがい”とか”こころざし”とか、そんなものはいらないんです。ただ淡々と仕事してそこそこのお金を稼いで生活ができればいいんです」という内容のTwitter投稿を見た。ふと「”やりがい”とか”こころざし”とか」が勘違いされているんじゃないかな、と思った。

つまり、この場でいわれている「”やりがい”とか”こころざし”とか」というのは、「お金を稼いでなんぼ(まぁ多い方がいいよね)」というようなニュアンスも含まれていたり、もしくは、気候変動を止めるぞ!とか自分たちの代で世界平和を実現!みたいな、一種の無謀さに立ち向かうことやそれに対して熱くなることを求められているような、そんなものなんじゃないかと思う。

だからそれらはいらない、ただ単純に仕事をしてそこそこの生活ができればいい、と言う。だけれど、以下のポイントはそんな、そこそこの生活をする中でも必要なんじゃないだろうか。

みずからの仕事がもつ広い〔社会的〕意味についておもい悩む人びとが主に想定しているのが、これ〔人々の役に立っているのか〕であったことはたしかである。わたしが収集した証言のほとんどで、「意味のある(meaningful)」という言葉は「役に立つ(helpful)」ということと同義であり、「価値のある(valuable)」という言葉は「有益な(beneficial)」という言葉と同義であった。人びとが自分の仕事の価値についてどのように考察しているのか、いくつか見ておこう。(268ページ)
これら二つを並べてみると、おもしろいことがわかる。というのも、ほとんどの人びとにとって「社会的価値」とは、たんに富をつくりだすことにも、余暇をつくりだすことにすらもとどまらないということを、これらの報告は示唆しているからだ。社会的価値とは、それらと同じくらい、社交性(sociability)をつくりだすことにもかかわっているのである。臓器提供は他のひとの命を救い、グラストンベリー音楽フェスティバルは人びとに、一緒にどろんこになりながら、ドラッグを楽しみ、お気に入りの音楽を聴くという経験—喜びと幸せを分かち合う経験—を与えてくれる。そのような集団的な経験は、「はっきりと社会的価値価値」をもつとみなしうる。対照的に、金持ちの人間たちがたがいに顔を合わせないようにする(周知のように、とても裕福な人びとはほとんど例外なくご近所どうしを嫌っている)仕事は、「社会的価値のかけらもない」のである。
さて、この種の「社会的価値」は測定することができないし、たとえば、これまでの証言を引用してきた働き手たちと話をしてみるなら、ななが社会にとって役に立ち価値をもち、なにがそうでないかということにかんして、かれらがそれぞれ微妙に異なる考えを持っていることがわかるはずだ。それでもかれらは全員、少なくとも二つの点には同意しているとおもわれる。第一に、仕事をすることで得られる最も重要なものは、(1)生活のためのお金と、(2)世界に積極的な貢献をする機会であるということ。第二に、この二つには倒錯した関係性があると言うこと。すなわち、その労働が他者の助けとなり他者に便益を提供するものであればあるほど、そしてつくりだされる社会的価値が高ければ高いほど、おそらくそれに与えられる報酬はより少なくなるということ、である。(271ページ)

お金をたくさんもらっていても、自分自身が「意味のある(meaningful)」「役に立つ(helpful)」を実感できなければうまくいかない、実際に私自身はそうだった。

伊集院光さんは師匠に「若いときは好きなことをやりなさい、歳をとったらそれに社会性を持たせなさい」と言われたそうだ。「”やりがい”とか”こころざし”とか」というのは、そういうことなんじゃないかな。

結局人は、「意味のある(meaningful)」「役に立つ(helpful)」ことを少なからずはやりたくて、そこに「はっきりと社会的価値価値」を見出せることが大事なんだ。それがあるかないか、本人が感じられるかどうかで「そこそこの生活」ができるかどうかも変わってくる。それらが見いだせることで仕事の継続率は高まっていく。

でも、問題は「その労働が他者の助けとなり他者に便益を提供するものであればあるほど、そしてつくりだされる社会的価値が高ければ高いほど、おそらくそれに与えられる報酬はより少なくなるということ」だ。

それを私たちが創り上げてきたのに(まぁ正確にはこの現象はここ数年の話ではないので、今生きている世代だって上の世代から引き継いだものではあるだろうけれど)その今露見してきている歪みの修正を若い世代に押し付けるのは酷じゃないだろうか。

どうやって修正したらいいかは分からないし、いきなり修正されるわけでもないんだけれど、とは言え、こういった知識やモノの見方が私たち自身を楽にしてくれたり、変化を後押しする僅かな力にもなるんじゃないだろうか。

▼ 最後に

私自身、若いときを振り返って約束をドタキャンするのに「仕事だから」と堂々と言ったことがある。行きたくない約束だったからわざと仕事を延ばしていたし、そういえば相手も納得してくれると思っていたから。今思うと恥ずかしいけれど。

でも、なんで約束を破るのに「仕事だから」という言葉で片付くんだろう。約束を破るにしても、家事をしない言い訳にしても「仕事だったらしょうがないよね」という感覚ってちょっとズレてきている部分があるんじゃないか。そんなに「仕事」が大きな顔をするべきなのか?

「仕事」や「労働」の意味が問い直されていると思う。テレワークが進むことでも、会社の外に出たからこそ会社でやっていた無意味な仕事に気づいちゃった人もいるんじゃないだろうか。

そう言えば「働き方」というポイントでは少し前に「今後フリーランスが増える」「今後の働き方はフリーランスだ」と言われていた時期があったような気がする。それは仕事内容にも言えることなのかもしれない。フリーランサーは比較的ブルシット・ジョブを排除できる気がする。「意味のある(meaningful)」「役に立つ(helpful)」ことでそこに「はっきりと社会的価値価値」があることをダイレクトに求められる気がする。ただし、私はフリーランスが必ずしも素晴らしいとは思わない。

改めて「仕事」や「労働」ってなんだろうね?「ブルシット・ジョブ」も読み進めて考えだしたらグルグルしたし、この文章もなかなかまとまらなかった。(今もまとまっているのかは私には不明だ)結局結論は出ないのだけれど、きっと考え続けることなんだろうと思う。

よかったら、直近の人気記事 BEST3も読んでみてください。(同率3位が2本あるので合計4本になっています。)

あと、前回の記事です。


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