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賢明なもう一人の自分を呼び覚ます:『直観を磨く 深く考える七つの技法』

ふと「直観」に関する本を読んでみようと、『直観を磨く 深く考える七つの技法』を手にとった。これがめちゃくちゃよかった。

私がそもそも「直観」に関する本を読んでみようと思ったのは、自分の中の「直観力を磨きたい」と思ったからだ。だけれど、この本のタイトルには、続いて「深く考える」と書かれてある。なんとなく、直観と深く考えるは反対のような気がする。その答えは早々に説明されていた。

直観と論理的思考の関係

より深く考えるということは、直観と論理的思考を対極におかない。その2つは対立するものではないと言う。むしろ、その2つが組み合わさった思考が、最高の思考法だと言う。

なぜなら「考える」の初級過程に「論理思考」があり、そこから進んで上級過程となる「深く考える」とは「論理思考を超えた直観思考」だからだ。そしてその間に中級過程として5つの思考法があるという。この7つで「深く考える七つの技法」が構成されている。

そして、どれかひとつが重要なのではなく、これらを縦横無尽に行き来できることが重要なのである。

直観力を身につけ、磨いていくために

どれも重要なことはよく分かったので、詳細はぜひ本を読んでほしい。それで、私は「直観力」に惹かれたのでそこをまとめていきたい。

まず、直観力を身につけ、磨いていくためには2つある。そのうちの一つが「自分の中から『直観力に優れた人格』を呼び出す技法」というものだ。なんだか怪しげだけれど、誰の心の中にもいる「賢明なもう一人の自分」については、以下のとおりだ。

この人格は、いつも心の奥深くに潜んでいるが、ときおきおり、心の表面に現れてきて、我々に語りかけてくる。そして、その鋭い直観や洞察を教えてくれるとともに、ときに、我々を、深い思考や思索へと導いてくれるのである。

『直観を磨く 深く考える七つの技法』(28ページ)

インサイド・ヘッドという映画がある。NLP(神経言語プログラミング)の中でも、自分の中の様々な感情、対立する気持ちなどのそれぞれを、パート(part)と言ったりするのだけれど、この映画を初めて観たとき、こんなにも可愛らしく、こんなにも分かりやすく、私の中のいくつもの感情が存在することを表現してくれていることに感動した。これを観るとイメージしやすくなるだろう。

そして、それを発展させて考えると、感情ほど単純化していないものでも、私たちの中にはいろんな「私」が存在する。その応用スキルがNLPでは確立されていて、ディズニー・ストラテジーというものがある。ウォルト・ディズニーの成功の秘訣を体系化したもので、自分の中の、夢をどんどん広げていく夢想家のポジションと、それを現実的に実行するには?と考える、現実家のポジション、そして、それらに抜け漏れがないのか?より実現に近づけるにはどんな工夫が必要なのかを見る、建設的な批評家のポジション、この異なる3つの見方ができたおかげで、ただの空想だった夢を実現したと言われている。

そのように、自分の中に、直観に優れた「賢明なもう一人の自分」を置くことは有効に違いない。直観力を磨くための第七の技法として「『自己対話』の思考法」があり、「『自分』で考えるのではなく、『賢明なもう一人の自分』と対話をする」というのである。

でも、自分の中に「賢明なもう一人の自分」がいるとは考えられない…

でも、自分の中に「賢明なもう一人の自分」がいるとは考えられない…という人もいる。才能ある人を見て、あの人は天性の、生まれ持った才能がある人だから…サラブレッドでDNAが素晴らしいに違いない…私とは根本的に何かが違うんだ、と思う気持ちは非常に分かる。天は二物を与えず、と言うけれど、そんなことはない、二物も三物も、いくらでも与えているじゃないか!

…ちょっと話がズレたけれど、そんなふうに自分の中に素晴らしい能力、賢明な私がいるとは考えられないと思う気持ちをこの本では「無意識の自己限定」と呼んでいる。自分で自分のことを制限してしまっている、自分で、いや、はっきり言って自分の中だけで「私はこういう人、これくらいの能力の人」ということを制限してしまっているというのだ。…分かる。子どもには「やってみないと分からないじゃないか、繰り返したらできるようになることもある」と言うくせに、自分自身はたった1,2回試しただけで「あぁ私にはこの才能がないんだな」と決めつけてしまい、その後試してみようとしなかったりする。

じゃあ天才はなぜ天才なのか、能力を存分に発揮できているかというと、この「無意識の自己限定」がないからだと言う。それで、この部分が非常に面白かった。

天才は、自分の発想やアイデアを、
「自分が生み出した」と思っていないからである。
天才は、自分の発想やアイデアが、
「どこかから降りてきた」と思っているからである。

(156ページ)

どこから降りてくるのか?それは、自分の中ではなく、「大いなる何か」に繋がることでひらめいたり、思いついたりするというのだ。私自身は、人智を超えた何か、というのは存在するように感じるので、この大いなる何かについてはスッと入ってくるのだけれど、それを信じていようが信じまいが、次に繋がることが面白かった。

なぜなら、こうした「自分は、大いなる何かと繋がっている」「自分は、大いなる何かに導かれている」という感覚は、自然に、ある種の「全能感」=「自分は無限の力を持っているという感覚」に結びついていくからである。

158ページ

なるほど。例えば音楽を次々に生み出す天才がいる。天才と言うと、天性のようで努力をしていないと言われているようで嫌う人もいるようだけれど、天才と言われることを厭わない人は、枯渇することを知らないのだろう。なぜなら、枯渇するのは、自分の経験が足りないから…すでにあるものを出し切ってしまったから…と、これまでの功績を私の力で実現したと認識しているから。

そうではなく、これまでのヒットも、そしてこれからのヒットも、どこかから降りてくるのだから、自分は安心して降りてくるのを待てばいいだけ、それが自分を制限しない、「無意識の自己限定」をしてしまわないコツらしい。

そう言われてみると、私の中でも、本当にささやかなことだけれど、そんなことはあるような気がしてきた。なんとなく、できるようになったのは私が繰り返したおかげだ、私が頑張ったからだ、私が十分に知識をためたからだ…と思ったりしていたのだけれど、それこそがおこがましいというか、思い上がりなのかもしれない。「私が」実行したと思うことは、まさにそれこそが「無意識の自己限定」であり、「私がやったのではない、何か大いなるものが私にそれをやらせたのだ」という、なんだかすごいことを成し遂げた偉人が言っていそうな感覚こそが、「無意識の自己限定」を遠ざけるものなのだろう。

「賢明なもう一人の自分」が現れるために

「賢明なもう一人の自分」が現れるための第一の技法として「まず自分の考えを『文章』に書き出してみる」というのがある。ここが著者は昔から日記を書いていたりするのでさらっとし過ぎている感じがする。しかし、書き出すというのが難しい人もいる。それで、最近以下の本を読んで、書き出すことのレベルが格段に上がった、思考の整理がめちゃくちゃ進んで感動したものがある。これは、本当に毎日書くことなんてできない!と思っている人の、初歩の初歩から案内しているから参考になるのではないか。書き出すことが得意な人も、第3、第4フェーズくらいからやると「賢明なもう一人の自分」との対話がめちゃくちゃ進む。

読書とは「自己との対話」につながるもの

それと、もうひとつ、私の中で大ヒットしたのは「『文章を読む』こともまた、『賢明なもう一人の自分』と対話する1つの優れた技法」だということだ。

それは、世の中にあふれる「価値ある情報を入手し、最先端の知識を獲得するため」といった目的の読書ではなく、自分の中に眠っている「賢明なもう一人の自分」に気がつき、その自分の持つ「深い叡智」に気がつくという読書体験になっていく。
なぜなら、本来、真の読書とは、「著者との対話」である以上に、「自己との対話」に他ならないからである。

231ページ

具体的には「一つの『格言』を一冊の『本』のように読む」ことが挙げられていた。

ただし、そのとき、一つ一つの格言の意味を「理屈」で解釈するのではなく、読んだ瞬間に心に響く格言を「直観」によって見つけていくのである。
なぜなら、自分の直観が「この言葉は心に響く!」と感じた瞬間に、我々の心の奥深くの「賢明なもう一人の自分」が動き出しているからである。

224ページ

そして「自分ならば、この格言を、どう書き直すか」「自分ならば、この格言の前後に、どういう言葉を付け加えるか」を考え、「その格言を加筆・修正する」ことが勧められてた。これが非常に面白いと思い、試しにやってみたい。

最近、以下の文章にグッと掴まれた。

「使命のほうがわれわれを探しているのであって、われわれのほうが使命を探しているのではない。」

『道しるべ』みすず書房、1967年

幸せの青い鳥もそうだし、愛についても、探し求めたり、そこに至る道があるのではない、ということは言われる。私自身、使命や天命というものだったり、人生の目的、魂の目的というものだったり、追い求めたり、それを実現するにはどうしたらいいのかと、ジタバタとした数年があった。そして今、感じている。上記にこう続けたい。

だからこそ、私ができることは、耳を澄ますことであり、いつでもお呼びがかかったときにすぐに動けるように自己を磨き続けることしかできない。

…のだけれど、これは実は『生きがいについて』の著者、神谷美恵子さんの言葉を受けたものである。最初の言葉のどんな部分に惹かれたのか、どこが私の心に響いたのか、もっともっと深堀りが必要なようだ。

最後に

直観力というとどこか、天性のものであるような感覚もあった。自分が直観力を磨いたところでたかが知れているのではと思う部分もあった。しかし、この本を読んで、それは「無意識の自己限定」であり、直観力も磨くことが確実に可能であること。なぜなら、直観力は論理思考の先にあり、論理思考と融合するからこそ発揮されるものであるということを知ったことが有意義だった。

そして、天才が天才たる所以もまた、その人自身、その人そのものに与えられたものではなく、天才=天から与えられた才能だというのであれば、そのひと欠片…数%くらいは私にも可能性があるものなのかもしれないと、まずは、そんなファンタジーでも思えることが「無意識の自己限定」の脱却のひとつであること。さらに、今、何かできていないからと言って嘆く必要はなく、さらっと天から降ってきた発想やアイデアを取りこぼさないように、周りを騒々しく、無造作にYou Tubeなどを貪っていないようにしていきたい。


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