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作為的なことをしないということ|何もせずに達成する(4):『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』

前回、この世(現状)や、かの世(ここではないどこか)への執着を手放すことが道筋になるのではないかと考えた。そして、老子の「無為自然」から、意図や意思、主観をすべて捨て去ることの大切さを学んだ。

この「意図をしないこと」や「作為的なことをしないこと」が非常に奥が深い。作為とはどういうことか?意図をしないとは?ふとつながった「願い」について考えることでヒントが見つかった。

何を「願い」、何を「思考」するのか

『思考は現実化する』という本がある。このタイトルが非常にキャッチーなために、本の内容から離れて、いかに自分の望みを実現するのかという方向に走ってしまった。自分の望みをノートに書けば書くほどそれらが実現する。アファメーションとして、現実に叶ったものとして唱えれば早く実現する。確かに、そういう部分は確実にある。私も、それを否定する気はない。

先日ある人から「世の中の『思考は現実化する』や『引き寄せの法則』は誤解されている、正しく認識されていない」という話を振られた。「思考」「願望」という意味が誤って広がってしまっているというのだ。

そのとおりだ。「何もせずに達成する」というのは「何を達成するか?」が非常に大切なのだ。現実化する「思考」「願望」は決して欲望まみれのことではない。自分の都合だけの、エゴにまみれたものが実現化したり、引き寄せられるわけではない。

「願い」を洗練するポイント

ちょうど、以前『直観力を開く』という講座に参加したときのメモが見つかった。そこにこう記されていた。

「願い」を洗練するポイント

  • その願いは、自分も他者も幸せにするか?

  • その願いは、他者を不幸にしないか?

  • その願いは、自他ともに成長するか?

ナポレオン・ヒルの語る、現実化を進める「思考」とは、決して自分の欲望まみれの、自分の利益だけを考えるような、単にお金持ちになりたいといったことを意味していない。あなたの欲望が何でも叶うと言っているのではない。だから本当は、ナポレオン・ヒルの語る「思考」とは上記の願いを洗練するポイントをクリアしている。だからこそ「願い」自体が悪いわけではない。願いを洗練させることがポイントなのだ。

計画=自分の思い通りにしてやろう

さて、ここから「作為的なことをしない」という部分についても考えてみたい。まず、作為とは一体なにか。

作為とは:ことさら手を加えること。つくりごと。こしらえごと。
Oxford Languagesの定義による

老子の教えで「作為的なことをしない」と言われているが、作為のひとつが計画ではないだろうか。一番最初に、私はもともと計画を立てるのが好きだったと書いた。だからこそ計画を手放し、前回はゴールを諦めることも大切なのではと考えた。もっと、計画とか、作為とかを紐解いていくとどうだろう。

しかし、孟子はまったく異なる世界観を持っていた。源流は孔子の思想だ。孟子は世界を転変するものととらえた。勤勉がかならず繁栄につながるとはかぎらないし、悪行がかならず罰せられるともかぎらない。どんなものにもなんの保証もない。世界には、当てにできるような包括的で安定した条理などない。それどころか、世界は切れぎれで、どこまでも無秩序で、たえまない修繕が必要だと孟子は考えた。安定したものなどなにもないと認識してはじめて、決断をくだすことができ、もっとも広がりのある人生を送ることができる。
『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』

計画は世界が安定していないと成り立たない。そんなことをうっかり忘れてしまう。そもそも、計画を立てること自体が愚かなのかもしれないと、孟子の教えを見て思う。災害の国日本で、大きな災害に見舞われるたびに、たしかに実感をする。安定したものなど何もない。計画をしたって、災害など自分の力でどうにもならない大きなものの前には無力以外の何ものでもない。このことを、ついつい私は忘れてしまい、明日は今日の延長だと思ってしまう。何事もない毎日が続いていくものだと誤った認識をしてしまっている。

「世界には、当てにできるような包括的で安定した条理などない。」分かっているのだけれど、人は不安定を許容できない。

何が自然で、何が不自然なのか

とするならば、何を安定とし、何を不安定とするのか。その定義も改めて考えてみる。

転変きわまりない世界に生きるとは、人の行為がかならず報いられる道義にかなった安定した宇宙に生きてはいないと受け入れることだ。本物の悲劇が起きるのを否定してはいけない。しかし同時に、自分の身になにが降りかかろうと、常に驚きに備え、どう対処するか学ばなければならない。その努力をつづければ、たとえ悲劇に遭遇した場合でも、世界は気まぐれであり完璧に規定することはできないと受け入れられるようになる。そして、これこそが、転変きわまりない世界に期待できる部分だ。世界が本当にいつも切れぎれで気まぐれでありつづけるのなら、改善するためにいつも取り組みつづけられる。自分がなりうる最高の人間でいようと決意してすべての状況に臨むことができる。それも、状況からなにかを得るためではなく、状況がどう転ぼうが、ただまわりの人たちを良い方向へ感化するためだ。みずからのよい面をつちかって気まぐれな世界に向き合い、その中で世界を変えていくことができる。
この展望は、「自分は何者か」とか「いかに人生を設計すべきか」といった大問題を問うものとは大きく異なる。むしろ、日常レベルでささいな変化を起こすよういつも努力するという話だ。それができれば、自分のまわりにすばらしい共同体を作ることができ、そこで人々は繁栄する。そうなってもまだ取り組みはつづく。自己の、そしてほかの人の向上のために努力し、より良い世界を築くための取り組みに終わりはない。
『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』

ある人の本のあとがきだったか、こんな話があった。山登りが好きなその人は、山から様々なことを学ぶという。山を歩く斜面に、まっすぐに伸びているとは到底言えない、むしろ、地面に平行な流れで伸びた幹を持つ木を見つけた。葉が茂る部分は、太陽を求めて上に伸びている。L時のように、ぐねっと曲がった木だ。それを見て「不自然に生えている」と思った。だけれど、その場所は非常に風が強く吹く場所で、若木のうちにまっすぐに伸びると風でポキっとやられてしまうことに気づいた。地面と平行なのは、風を避けて成長した結果というわけだ。何が自然で、何が不自然なのか。木にとっては非常に自然な形で成長しているという話だった。

もし、木が意思を持っているとして、計画性を持って、5年後までに曲がることなくまっすぐに10メートルほど伸びよう!と決意したとする。風でどうしても曲げられてしまうのだけれど、作為的に、つまり何かしらの手を外から加えてまっすぐにする。強い強い意思があれば、実現するのだろうか?きっと無理だ。特に強い、台風などの風で折れてしまうのがオチだろう。その意思になんの意味があるのかと思う。しかし自分に置き換えると、私たちは似たようなことをやってしまっているのではないだろうか。

孟子の言うように、私たちに必要なことは、大問題を問うこととは大きく異る、日常のささやかな行動だ。木のように、10メートル伸びる、という意思ではなく、毎日、根を広げ、水を吸い上げ、日光を浴び…それを繰り返し、その場で伸びられる方へ快適に伸びていくこと。これが木としての命を続ける道だというように。

人から見たら不自然が、木にとっては非常に自然だったように、転変きわまりない世界もまた不安定なのではなく、不安定さを安定している、安定して不安定さを保っているとでも言おうか、それが自然なのではないだろうか。

今回のまとめ

  • 「何もせずに達成する」というのは「何を達成するか?」も非常に大切

  • 何億稼ぎたいとか、〇〇が欲しいとか、そういった自分の欲望まみれの願望ではなく、願望を洗練させる

  • 転変きわまりない世界は、安定して不安定さを保っている

最初は「何もせずに達成をする」を実行してみたいだけで、何かを達成しなければという思いはなかったけれど、きっとこれらのヒントが何かしらの達成を加速する近道になりうるのではないだろうかと、今は思う。

「作為的なことはなにもしていないのに、すべてを為している」がカッコいいと前回の最後に書いた。孟子の教えと、上記引用部分の「そうなってもまだ取り組みはつづく。自己の、そしてほかの人の向上のために努力し、より良い世界を築くための取り組みに終わりはない。」という一文を読んで、「すべてを為している」というのは完了形なのではなく、なし続けているという現在進行系のかたちなのだと改めて確認した。

書いても書いても、ゴールらしいものが見えない…と思う。そのときどきの、毎回のポイントを寄せ集めているだけようにも思う。だけれど「これが、何もせずに達成をすることの本質だ!」と断定することができるのは、もっと精進が必要だろう。次回は全体を振り返ってまとめるか、他にも気になることがあれば引き続き探求してみたい。


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