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アナログな人生に幸あれ

おはようございます。


今年も福島県の研究機関にお邪魔して
実習に参加しております, atom.です。

ちょこちょこと投稿をサボり始めましたが
温かい目で見守って頂けると幸いです。


さて今回は

スナップショットとアナログ

というテーマで書いていこうと思います。


BGM紹介

♪おなじ話/ハンバート ハンバート


2つの軸


今週、考え方について聴かれることがありました。


それは私が、

「主語を大きくすること」と
「だらだらと話すこと」を避けるように努めている

と話したことがキッカケでした。


主語はミニマムに


何度か記事を読んで下さっている方には
もうバレていると思うのですが、


私の記事は、

ニュアンスが同じで表現が違う結論に収まる

というケースが少なくありません。
というか自白すると、ほとんどがそうです。


「良い悪い」ではなく、
徹底して「好き嫌い」で捉えるという信念のもと、

素直に文章を書くと自然とそうなっていました。


"みんな" がどうか、ではなく自分がどう感じたか。
何を食べたいのか。何を着たいのか。


どう生きたいのか。


自分の意志だけで決まる事柄など無く
必ず外部の影響を受けるとは知りつつも、

自分にこだわってしまうのです。
決して "私たち" や "みんな" にはしない。


それも自分らしさなのかなと最近は思っています。


点を打つ


あと、先に目的や理由で線を引いて、
その線の近くにある知識や経験を積み重ねることは

効率的で有意義なのかもしれませんが、


最近は、先に点を適当に打ってしまって
あとから線でつないで道を作る方が

再現性が無くて面白いなと思うようになりました。


億年単位で磨かれてきた生物の本能を頼りに、
面白そうな流れに身を任せることにしています。

自分のためになるかどうかは分かりません。


ただなんとなくそれで良いような気がしています。


線を引く


もうちょっと理屈立てて話をすると、
キャリアにはVSOPという考え方があるらしく。


Varietyを広げることで、
自分に合ったSpecialityを見つけることが出来る。

その専門性に経験や考え方の癖が乗ると
Originalityになり、

次第に「XXと言えば〇〇さんだよね」という
その人にしかないPersonalityに変わる。


この流れは私が大好きな
"生物の進化" とも噛み合っています。


例えば、原始のキリンが生き残ろうとして

足を長くしたり、胴を短くしたり
首を伸ばしてみたり、毛をふさふさにしてみたり。


進化の中でVarietyを追求した結果、

高いところの草を食べるという
生き残るためのSpecialityが手に入った。


この専門性は草食×背が高いという要素を持つ
キリンにしかないOriginalityであり、

子どもたちは口を揃えてこう言うはずです。


"くびがながいどうぶつ" といえば
キリンさんだよね、と。


つまり、生き残った結果、
首の長さはキリンのPersonalityになった。

personではないのでちょっとややこしいですが。


そんなこんなで今の自分は
点をワーッと打つことでvarietyを出しながら、

後々で線を引いて自分なりのoriginalityを
出そうとしているのかなと解釈しています。


うん。

なんとなくの行動が実に正当化されましたね。
上手く線を引けました。


切り分ける


あともう一つ意識しているのは簡潔に話すこと。

これは、あるインターンシップに参加した際に
強く考えるようになりました。


事実と解釈


お題が与えられ、グループで作業している最中に、

○○はあると思いますって言ってたけど、
本当にあるの?

とチームメンバーに質問を投げたところ、

〇〇でXXだからあると思うよ。

と返答がありました。


この返事を受けて、咄嗟に

今の会話って、日本語通じてなくない?

と、言ってしまいました。
どこがズレていたのかお気づきでしょうか。


私が聴いたのは、

ある"らしい"ということは分かりました。
その解釈にはある程度納得しています。

その上で、それは事実ですか?証明できますか?

ということです。


それに対しての返答は

〇〇(間接的な証拠)やXXX(間接的な証拠)から、
あると思うよ(解釈)

解釈は理解できた上で事実かどうかを聴いたのに
間接的な証拠に基づいた解釈が返ってきています。


私の中では、

晩御飯は何を食べたい?
という質問に対して、

最近の日本経済は…という話をされたくらい
議論が飛んでいる感覚がありました。


ゴチャゴチャいいから、

ハンバーグなのか野菜炒めなのか
食べたいモノをはよ言わんかい、と。

気分は母親です。
エプロン着けてます。


再度、
直接的な事実が取れるか
YesかNoで答えてほしいと聴くと

事実と断定するのは難しいと答えてくれました。


聴き方が悪かったと言えばそれまでですが、

間接的な証拠まで話したことで
最初の質問の意図を忘れて、

結論がズレていったことも
原因の一つでは無いかと感じました。


そもそも自信がある場合は
きっぱり言い切れるのでダラダラ話す必要が無くて、

いかに分かりやすく結論を伝えるかという、
引き算での会話を行うイメージがあります。

自分も発言に自信があるときはそうです。


一方で結論が弱いことを自覚していると、
足し算で説得力を成立させようと

要素を拾い集めてダラダラ話してしまいます。


結果的に「何が言いたいの?」という
so what?を問いかけられてしまい、

だんだん声が小さくなっていきます。


タチが悪いのは、いっぱい喋った後に
so what?と言われると得てして

自分はちゃんと答えたのに分かってくれない!

という地獄のような認識のズレが
生まれてしまうんですよね。


ここが人と人でやる議論の難しいところで。


でも、いっぱい喋れば満点というわけでは無いので

相手の求めている答えが1つも入っていなければ、
その発言は0点でしょうと。

そんなイメージで最近は議論をするようにしています。


幸か不幸か


そんな話の流れで、
幸せに時間軸を導入するかという議論になりました。


目先の幸せを取るのか、将来的な幸せを取るのか。


自分とその場にいた人の答えは対立し、
私の回答は「時間軸は導入しない」というものでした。


今まで書いた記事にも、

しんどいですが将来のために頑張ります

というような書き口は出てこなかったと思います。
少なくとも書いた記憶はありません。


幸せかどうかは評価した瞬間の視点に
大きく依存すると考えているからです。


"塞翁が馬" の話の各シーンで、
いちいちスナップショットを取って評価をするような、

そんなナンセンスさを感じます。


随伴性


辛いことも考え方次第では...といった
根性論を話すつもりは無いです。


しんどいものはしんどいですし、
動けないときは動けないです。


ただ、動けないときでも個人的には
三項随伴性で行動を捉えるようにしています。


三項随伴性とは、行動分析学という観点から
行動を評価する際に出てくる言葉で、

どんなキッカケで何を期待して
どんな行動を起こして
どんな報酬があったから、次もやるのか。

ザックリ言うとこんな感じで、行動を
予兆→行動→結果の三項の連鎖として
言語化します。


このループをひたすら考える癖がついていて、
最近も「やりたいことが分からない」という知人に

三項随伴性で考えると、

動きたくない・しんどいときに、
動かなくて良い理由が手に入ることを期待して、

「やりたいことが分からない」と悩む
そうすればなんとなく頑張ってる感を出しながら
ダラダラしても正当化できるよね。

動きたくないから悩んでおこうという
ループに入ってない?

と鬼のようなセリフを吐きました。


言った本人は今、京都から福島まで移動して

「粘土を液体に漬けて顕微鏡で見る」という
極めて生産性の低い活動に取り組んでいるのですが、

棚に上げてそんなことを言ったりします。

まあ、やりたいことはやれています。


アナログで見る


  • とりあえず幅広く行動してみる。

  • 相手の質問にきちんと答える。

  • 幸せをスナップショットしない。

  • 三項随伴性で捉える。


ダラダラと3000文字も書いてしまいましたが
結局いま頭にあるのは

デジタルではなくアナログで考えるということ。


理系の世界では

デジタル=ブツ切りの非連続

アナログ=滑らかな連続

という等式が成り立ちます。




今の活動は非連続でも
後々、線になり滑らかに接続されるはずで、


そのためには安易なスナップショットを避けつつも

何を求めているのか、ゴールはどこかという
問いには一秒で簡潔に答えられる準備が必要。


で、ゴールに向かうには、今の自分の行動を
随伴性で捉えて分析し続ける必要性があると。


そういうわけです。

まあ、そう言いながらも思いつくままに
ダラダラと書いてしまいました。


いつも同じ話ばかりですみません。

よければ、また読んでやってください。


福島から愛をこめて
atom.


P.S.

今週、実習の合間に読んで面白かった記事を
貼っておきます。(いつも楽しく拝読してます!)


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