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良い人すぎる人と良い人のフリをする人

一般社団法人 学士会の会誌"NU7"に記載されたエッセイを転載したもので、2021年1月号の原稿です。以下、本文↓

他のエッセイはこちらからご覧ください。
また、原稿は昨年執筆ですが、当時考えていた事と今に思う事があるので、後半に少し書きます。詳細は目次からご覧ください。


エッセイ本文

少し前、とあるニュースがテレビで流れていた。SNSで知り合った自殺を願う複数の女性を殺害した事件で、その裁判と被告の男性に関するものだった。別のニュースで、過去に死を望んだ経験を持つ女性が、自死を願う若い命を救おうと奔走する姿も映っていた。事件を論ずるつもりもインターネットの功罪を語るつもりも無いが、弱っている人に手を差し伸べる事は悪ではなく、命を救う事もある。しかし、今回は逆になっていた。犯人はあまりにも残忍で、かつ賢かったのだろうか。

 2020年は不条理な現実に直面した1年だったが、出会った人たち顔を思い浮かべると、やはり笑顔は少なかったと思う。社会人も長くなって、古い友人は少しずつ減り、若い友人が増えているが、あまり歳の差で感じさせないようなコミュニケーションを意識しているためか、マウントされる事が多少ありつつも、みんな気兼ねなくフラットに付き合ってくれる。特に今年は様々な相談に乗る、または悩んでいる人と接する事が多かった。

自問自答していることがある。自分のためにやっていないか?っという問いだ。人間関係の構図で考えると理解しやすいが、関係の優劣が受動的に決定されるため、優越感に浸れてしまう。相手は弱っていて、藁にもすがる思いでいるためか、間違っていても話を飲み込んでしまう。やる気になれば、己のヨコシマを満足させる事もでき、それは相手ではなく自分のためになる。そうならないように、なるべく自分の愚かな面や失敗談を多く話して、成功した部分は謙虚に話すようにしている。失敗が成功を作るので、その方が好ましいと思う。
こんな人もいた。一方は、相談に乗っている過程で親密になってきたのに、それを避けて良い人に徹する人、他方は相談を受けているうちに説教を始めて、無関係な虚勢を張る人である。どちらも弱い人で、己の厚い壁の存在を認められない人は、壁から人を遠ざける。器に才能を詰められない人は、空の器を無駄に大きく見せる。優秀な人間は佇まいで分かる。
自分は弱いと思う。ただ、弱いと思う自分と向き合えば、強くなれる事も知っている。

考えていた事と今に思う事

グルーミングという言葉がある。一般的には、猫がよく行う"毛繕い"であるが、別の意味として”加害者が性的搾取を目的として被害者の信頼や好感を得て精神的に支配するプロセス"がある。このエッセイを書いていた数ヶ月前、座間市で起きた殺人事件の裁判が報道されており、その詳細は"グルーミング"に近い出来事であった。よく言われるのは、年の離れた若い女子を狙った性犯罪であるが、実際にそのようなシュチュエーションになって事に及ぶ人もいるだろう。上述の"自問自答"というのは、自分でそれを危惧した事でもある。そんな度胸も無くて、かつ心を開くのが苦手な自分なのだが、人間は盲目になり得る。

どちらかというと、困っている人と接する中で気持ちが強くなると言うよりも、どこかで既に好きな部分があって、それが大きくなる方が人間関係として的を得ている気がする。だが自分に置き換えれば、その過程で自問自答している間に、怖くなって"慎重の部屋"に閉じ籠ってしまうように思う。

最近になって自認できるようになったが、自分は女子的な思想があり、それを20代と30代の友人の女性に話して、それを確認できて、それをその友人たちは好意的に承認してくれた。一方で、ある人の相談に乗っているとか、こんな人がいるんだけどねっと、限られた一部の男性陣に話すと、大方は"ワンチャン"っという言葉が飛び交う。当時感じた違和感の理由は、自問自答の有無と思想のズレだろう。それが良いかどうかは議論しないが。

ある人と"コロナ禍"について話をした。何が変わったのか?と話題になって、下品と上品が大きく分かれたという見解が出た。

確かにそう思う。

色んな人と出会って、話してみて、年上だから尊敬できるとは限らない人を数多く見てきたし、若い年下から学ぶことが増えた。理性と人徳は、時間と比例しないし、減ることもある。せめて、年齢に関係無く、敬意を持って向き合える人が数多くいてほしいと願う。



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