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⭐️エッセイ: 自分で決める死生観

少し前に「死生観」について記事にした。
「死」については全ての人の課題であるにも関わらず、触れてはいけないものかのように思いがちだ。ぼくはそのタブーを破りたい。

今回の記事はとても大切なことなので、いつもは読み飛ばす人であっても、できればしっかりと読んで考えてほしい。

いつか必ず考えなくてはならないのが「死」についてである。

自殺は言わずと知れた「病気」から生じるものだ。健全な心であれば自殺することはまずないだろう。

ぼくは自殺と自決はまったく別の動機から生じると考えている。
「自らで命を絶つ」という行為は同じでも動機が違えば別物だと考えている。

自殺については、述べるだけの力をぼくは持っていない。ぼくが述べたいのは「自決」のことだ。

自殺と自決は同じじゃないかと思われているが、ぼくはその決断にはだいぶ違いがあると思っている。

たとえば、家族全員が崖から転落しそうになって一本のロープにぶら下がっているとしよう。
その際に、誰か一人がロープから手を離さなければ切れて、家族全てが死んでしまうとしたら、それを助けるためにロープを手から離した者は自殺したと言っていいのだろうか。

自分を犠牲にしてでも他者を守ろうとすることは、自殺ではなく自決と呼ぶべきではないだろうか。

自分の存在が他者の生存を危うくすることに耐えられないという場合はどうだろう。

どう生きるかを自分で選ぶように、どう死ぬかも自分で選ぶべきではないのだろうか。

必ず病院で死ななければならないのだろうか。
必ず誰かに看取られて死ななければならないのだろうか。

自分の死生観を明確にしておくことは重要である。
必ず死ぬという前提は揺るぎないものだ。その前提から生きることを考えると自分の現在を問うことができるはずだ。
何をすべきかということだ。どう考えるべきかということもだ。

ぼくは死にたいのではなく「どう死ぬか」を真剣に考えたいのだ。目を背けてはならないのである。
生き方を自分で選ぶ自由があるのと同じように、死に方も選ぶ自由がある。それなのにこれだけは他人の倫理観を押し付けられている。「こうあるべきだ」という話のことだ。
自分の死への恐怖から他人へ「死んじゃダメ!」と言うが、人間は必ず死ぬ。

どういった死に方なら許されるのだろう。この答えを持っている者はいない。自身で見つけるしかないのだ。

暗い話をしているのではなく真剣な話をしているのである。

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