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哲学:治療的に考える哲学−「考えること」と「思うこと」−

はっきりしておきたいのは、ぼくは思考を治療的に考えることに着目しているということだ。

これまで何度も、同じように思われている「考える」ことと「思うこと」は違うのだと書いた。
【思考】と【情動】は違うのだ。【思考】と【煩悶】も違う。

この重要性の言い出しっぺはぼくだが、あまり理解されないでいる。
言葉を分析した人はいるが、ぼくの視点はそれとは全く違う。

それらを分けて考えるだけでも治療的になるくらいの重要度だという視点がいるのだ。

忙しい昨今、心の中は「思うこと」でいっぱいになってしまう。それを「考えている」と思ってしまうと辛くないだろうか。
流していくべきものは「思うこと」の方で「考えること」はやるべきことなのだ。

雨が降りそうで「嫌だな」と思っても、「傘をさして行く」と考えなくてはならないのが現実だ。

考えることは「満足」に終わるが、思うことはそのままなのだ。

そういったことを知ると「考える」に特化することができ、「思うこと」は気晴らしで誤魔化すか、「考える」ことで乗り越えることができることがわかる。

治療的に考えるというのは誰も言わないけれど、心の制御には不可欠なことだ。
哲学を治療的に使おうとする試みは知る限りない。

ぼくの仕事は「薬を使わない」「外科手術をしない」という「制限」の中で、不調を逆転させるという課題がある。

筋骨格系の不調の逆転なら可能というレベルにぼくは到達した。
同じように、心にもそれが可能かどうかに挑戦している。それも自力でだ。

哲学そのものの有用性は問わないが、それらから「どう考えるか」によって、心や身体を変化させることが可能かどうかを課題にしている。

真理には、真理でないものを変更させる力があるように感じている。

ぼくの言う治療的に考える哲学は、みんなのいう哲学とは違うのかもしれない。

「病的から逆転する」という視点から「どう考えるか」が、ぼくの哲学の根幹にある。

それも哲学なのだと受け入れてほしい。