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治療的哲学: 破るべきは常識ではなく慣習ではないのか

「常識は破るためにある!」「常識を破るんだ!」「常識を破れ!」と勇ましいことを世間では言う人もいる。

それは、そんなことを言う人の「常識」のようだ。
ぼくはそんなことは言わない。それらの「常識」を破りたいからだ。

また、みんなのいう「常識」は、「慣習」のことと勘違いしているのではないだろうか。

野球の大谷さんが「二刀流」を実践したからといって、それがこれからの野球の常識になるとはいえない。可能性が拡がったというべきなのだ。

常識は破るためにあるのではなく常識を作り上げるためにある。

常識は「共通感覚」のことだが、共通感覚を無くしてしまうとどうなるかは想像できる。
そういったことと比較して「慣習」はどうだろうか。
破るべきは「慣習」だということに気づくはずだ。

やらなくてもいい習慣を維持していないか観察することは大切だ。
残された時間は短く、磨き上げる才能は少なく、能力は減る一方という条件の中で、自分の集中すべきことへ注力することは後悔を減らすには必須だ。これは常識だといえなくもない。

常識は破るのではなく新たに構築するのだというと理解しやすいが、悪い慣習は今すぐ破棄することだ。

威勢のいい話には乗っかりやすいが、それが自身の足を引っ張っているのではないだろうか。
こういった常識をぼくは破棄したいのではなく構築したいのだ。

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