考察:評価することについて
評価とは、基準に照らして価値を判断するといわれる。
基準が数値化できるものなら話は簡単だが、芸術的な価値や哲学の価値は後々になってから評価が上がることもある。
当時の評価していた者の価値基準が低過ぎたか、何もわかっていなかったということだろう。
だからといって、現在では解消されたとはいえない。
芸術の世界を例にとると、ランガーのいうように「主観の客観化」を芸術とするなら、評価する者の主観とは何かを示さなくては不公平だ。何を主観的に価値があると言っているのかということだ。
「美」だというなら、その「美」とは何を指して「美」と呼ぶのかも示さなくてはならない。また、「私は美を評価する者です」とも宣言しなくてはならない。
けっして「芸術を評価する者」と言ってはならない。芸術は「美」だけを表すものではないからだ。「美」だけで芸術を語るには不十分だ。
そして、芸術を評価する者がいるように、評価する者を評価する者がいてもおかしくはない。
それに耐え抜いた者が評価するものは、なかなかのものではないだろうか。
世の中にある「価値がある」と言われるものは、「自分の好きなもの」であることがほとんどで、後付けされた評価を「私もそう思う」と追随しただけのものだ。
要するに、評価する者が、何かを発見したのではなく、評価されたものを確認しただけなのだ。
ものに対する好みと価値を混同して使用しているということだ。
ぼくは、これまでになかった視点や可能性を示すものに価値があり、人間の可能性を拡張しようとするものに価値があると思っている。
それは、一見すると大したことのないように思えるが、しっかりと観察して考えてみると、普遍的なものを含んでいるものだ。
「好み」とは随分と違うものだが、それを除くと、価値には「好み」の出る幕がないものが多いように思う。
また、「好み」を除外すると、実は「価値」について何もわかっていなかったことに気づくはずだ。
いずれにしろ、物事を評価するには、「何をどういった基準で評価する」と前もって言っておくべきだ。
それによって、評価される側も、評価する側を評価することができる。それが公平というものだ。
それができないのは「言いがかり」と呼ばれる。