【ナショナル・レヴュー】ポリティカル・コレクトネス文化: ダグラス・マレーのインタヴュー: ジェンダー、人種、アイデンティティ(2)

MK: そうですね。また同時にあなたが行っているのは、人間の精神や人間の人格を個人であるとする考え方に、繰り返し焦点を当てることです。人種についての章の冒頭において、人々は肌の色や、自分で制御できないその他の何らかの属性によってではなく、当然その性格の内実によって判断されるべきであるという、マルティン・ルサー・キングの言葉を引用しています。ということは、あなたはある意味においては、それがとてもとても興味深い問題であるにしても、ハードウェアとソフトウェアの違いというのは、手がかりとしてはあまりふさわしい問いではないとお考えなのでしょうか。ではそれの何が重要な点なのでしょうか。

DM: そうですね、その区別はある点ではとても重要です。というのも私たちは、私たちがどこで偏見を行ないうるかについて、理解する必要があるからです。私がそれを使っているのは、いかなる軽蔑的な意味内容もない、言葉の非常に中立的な意味においてです。私たちが理解する必要があるのは、何について私たちがそのような判断をすることができ、どのような状況であればその判断が残酷なものとなり、またどのような状況であれば、その判断が問題のないものとなるか、ということです。だから、たとえばですが、もし私たちがトランスというのは主としてソフトウェアの問題であると決定したならば、ひとは絶対にそれで子供に対して実験をしてはいけないのです。

MD: はい、それはまさに、その通りですね——あと私はもう一つお尋ねしたい質問があったのですが、おわかりのようにトランスについての章の冒頭において、すべての時代には、別の時代からふりかえってみれば、あいつらはいったい何を考えていたんだ、というような物事があるという風におっしゃっています。できればですが、あなたがこの本を執筆しながら学んだことで、そういうものでお話しできることが何かあれば、語っていただけないでしょうか。というのも思うに、それについてはあまり多くが語られていないからです。

DM: 私が思うに、そういったことが、いま人々のやろうとしていることの一つなのでしょう。というのは、この本の終わりに近づくにつれて浮かんできた大きな問いの一つが、私たちがそれをしないとすれば、あるいは思うに、そうするべきでもないとすれば、そもそも私たちは一体何をしているのか、ということになるのです。人間として、そして社会として。しかしながら、思想に興味をもっている誰しもがやってみなければならないことは、ある想定をしてみることなのだと思います。それは私たちの友人の一人であるFraser Nelsonが何年か前に私に示唆してくれたことです。つまり、自分たちより前のすべての時代が、彼らはいったい何を考えていたんだ、と驚嘆させるようなことを行なっていたと想定してみましょう。そしてまた、私たちが人間の歴史のなかで一切の間違いを犯さず、ほとんど完璧であると考えないのであれば、私たちもまた同じようなことをしていると考えてみましょう。そうすると確実なのは、私たちの子孫たちが振り返ってみれば、そこに戦慄と驚嘆しか起こらないようなことが、私たちのしていることのうちにも含まれているということです。

つまりこういうことです。私たちの先祖たちと同じように、おそらく彼らは自分たちが悪になってしまうような事柄は望まず、自分たちが善になるような事柄を望んでいます。ところが、これがいつでも歴史における魅惑的な事柄の一つなのですが——間違っていることは、ほとんど常に善くあろうとする努力から生まれてくるのです。そして私が思うに、とりわけ未来の世代が驚きをもって振り返るであろうことが、私たちがトランスについてやろうとしていることの大半なのです。その章の冒頭の始めで、私は、約十年前におけるベルギーでの非常に不幸な事例について述べています。この例については、ちょうどNational Reviewでの安楽死についての別の文章でも触れています。このかわいそうな女性について、トランスという別の側面からアプローチをしています。彼女は、恐ろしくおぞましい両親のいる、男しかいない家庭にあって、明白に自分の兄弟のようになりたいと望んでいました。

そしてどのような理由であっても——彼女に心理学を適用したいわけではないですが——彼女が思ったのは、男の子であれば幸せだったのに、ということです。そして二度も女性から男性への転換をし、ベルギーの医療センターで主たる手術を3回も受けました。それはうまくいかず、よい結果をともなうものではなく、数多くの傷を残して、結局は安楽死を受けることになったのです。私が考えるに、未来の世代は回顧しながらこう思うでしょう。「ベルギー人たちは、21世紀にいったい親切心の名の下に何をやっていたんだ」とね。そして、人々がしようとしていることは、こういった類の間違いや過ちから目を背けておこうということなのです。しかし、それらに注意を向けなくてはなりません。私たちが何をしているのかに注意しなければなりません。そこに疑問が浮かんだときには、そういったことを嫌悪や偏見として片づけてしまうのではなく、問わなければいけませんし、問いかける能力をもつ必要があるのです。あなたがすでに言及したように、あなたはマルティン・ルサー・キングをとりあげていましたが——彼が私を引用したのは、私は、自分が大人として過ごしている時代に、何か深刻なことは起きていると思ったからです。そして私が自分の本のある点で言っているのは、このキングの夢を解きほぐしてみること——つまりは、語られたことの内容をただ語り手の性格の問題に帰着させることから、距離を取ってみることなのです。

ある言葉は、別の何かではなく、その人だけのものとされていれば、とても安全なものです。ある考えは、ジェンダーやセックスや性的志向や人種に依存しつつも、その人だけのものとして表現されることもできます。しかし、これは真理を探求しようとする人を、難しい立場に置くことになります、なぜなら、それでは真理の探求よりも、別のことが大事になってしまうからです。ご存じのように、人種についての章の終わりにおいて、私は、自らの肌の色ではなく自分性格の内容によって誰かを判断することこそが問題なのだ、こう主張する、白人らしさを研究する大学教授によって、1963年におけるマルティン・ルサー・キングの夢が半世紀の間に完全にひっくり返されてしまったことを明らかにしました。

MK: これは問題の一部ではありますが、ただポストモダニズムにも関わるものですね。そしてあなたはジュディス・バトラーにも言及しています——そしてあなたの本で私が気に入っているのは、ダグラス、あなたが自分の論点を証明するのにぴったりの人々を引用することです。この点について、あなたは詳しくは論じてはいませんが…

DM: そうですね、その点については彼女自身が、著述家としての彼女の訴訟の最高の証人になっていると思います。

MK: まさしく(笑)しかしここには、究極のシニシズムがあります。それは彼が「真理とは何だね」と彼が問うときのポンティウス・ピラトゥスのシニシズムなのです。もし私たちが、自分がまったく真理というものを信じないという立場から出発をすると、どうやったら私たちは、あなたの素晴らしい考えを受けいれたり、それと共存していくことができるのでしょうか。あなたは真理の探求について語っていますが、私は、私たちはそれを止めてしまったとも感じているのです。

DM: 大部分の人においては、そうですね。しかしながら、もし人々が真理と何も関係がなく、それを探求することも、それに興味をもつこともなく生きているとしたら、それは非常に不幸な人生なのです。というのも嘘のうちを生きれば生きるほど、世界は方向性を失ったものになってしまうからです。真実というときに、私が言っているのは、あなたは疑問の余地のない基本的な事柄から出発するべきだということです。人が死ぬということについて人々を欺くのがよいことでしょうか。成長しつつある人々に対して、自分が本当に永遠に生きていくことになると語るべきでしょうか。もしあなたがそんなことを教えたりすれば、どこから彼らは地獄のような失望を味わうことになるでしょう。彼に、あなたが愛している人は誰も死ぬことがないと教えて、そう言い続けてみてください。実際にどのように彼らは世界で生きるようになり、生を営んでいくことになるでしょうか。とても不幸なのです。

MK: それは本当に間違ったことですね。というのは、私は、いつだって「#Me Too」に関する物事において、いつでもそんなことを聞かされているからです。人々はやってきてこういうのです。「そうよ、これが私の真実なの。これが私の真実(my truth)なの」とね。でもところで、真実そのもの(the truth)はどうなっているのでしょうか。

DM: そうです。ここ最近はそうなっていますね——90年代からと言えるかもしれません。不平を訴えた人々が存在していると言ったものが、存在している物事であるという考え方です。それがまた私たちの国の法律にも記載されていっていて、そこでは犯罪の被害者が主張しているのは、その被害の理由となっているのは、自分がそう感じていることだ、ということになっているのです。いずれにしても、それは、正義は盲目なものではなく、ある人々を別の人々より優遇するということなのかもしれません。私の考えでは、セクシュアリティや人種を理由として殺された人というのは、自分のハンドバッグのために殺された人と、よくも悪くも、何も変わらないのですがね。

ただそうですね、「私の真実」という考え方——こういった語り口の大半は、法外なほどに多様で多元的な社会とどう付き合っていくかという問題に由来することでしょう。そこではいまや、お互いについていつでもそうやって語りあうことができるわけですから。ですので、ひとはいつでも自分をごまかす方法を見つけなければならない、人々はそう考えています。思うに——いくらかの人々にとっては——ちょっとした嘘というのは、うまくやっていくには都合のよいもののようです。しかしながら私が思うに、一般的には、真理に対する関心をもって人生を営んだ方がよいと人々を説得することができます。というのも、そうでなければ世界のうちで自分を方向づけることができなくなってしまいますからね。というのは、世界というのは、必ずしも自分にとっては驚きではないような驚きを、投げかけ続けるものなのですから。

MK: そうですね、ここにはまた矛盾もあります。私はどうしてこういった人々が、どうしてそんな矛盾のうちを生きることができるかがわからないのです。もし私だったら、おかしくなってしまうと思うのですが。

DM: そうですね、これは私が本を書いている間における一つの大発見だったのです。というのも、私は長いあいだ、確実にこういう無意味な交錯は、その自己矛盾の重荷に耐えきれずに瓦解するだろうと考えていたのです。そして、もちろん私がわかったことは、これらの考え方の大半がマルクス主義を基調としている——このことについて間奏的な章で詳しく論じていますが——マルクス主義を基調としていることによって、実際にこれらの矛盾は問題にはなっていないのです。マルクス主義の思想の大部分のうちには、もちろん矛盾が存在していました。それらはただ包含されて、克服されるべきものでした。しかし、それらは問題ではなかったのです。それらは、私やあなたが問題だと思っているような意味では、問題ではなかったのです。もし矛盾があるならば、それはある物事の一つが間違っていることになりますし、私たちはそれが何であるかを理解しなければなりません。

しかしそれは、歴史的に見て、マルクス主義者たちの考え方ではないのです。これが魅力的なもののようです。私の本にはそういったこともいくつか登場します。この思考体系の外部にいる人にとっても、それを理解することは大事なことです。というのも、そうでないと、これらの矛盾がいつかその運動を終わらせてくれるという希望のような、望みの薄い事柄に希望を抱いてしまうことになるからです。

MK: はい、あなたが言ったことに少し話を戻しますと、あなたは問いかける能力についてお話をしていました——私が意識しているのは、私たちのどちらもこのことを過剰に掻き立てているわけではないですが、私たちはどちらも昨今の若者受けする性格をもっているとも言えます、というのも私たちは犠牲者集団の一つに属しているからです。私は女性ですし、そしてあなたはゲイです。

DM: そしてあなたはスコットランド人で、私もスコットランド人ですね。

MK: いやいや私たちは犠牲者ではないですよ、ダグラス、冗談はよしてください!

DM: 征服者だね、征服者!

MK: まさに、基本的には世界の全体を発明で席捲したともいえます——ただいずれにしても、重要なことは、人々は私たちに耳を傾けようとする、そこには、それに付随する、ある種の昨今の若者受けする性格があります。そして、私は思うわけです、もしあなたが若くて、ストレート(同性愛者でないこと)で、白人の男性である、つまりはいかなる犠牲者の地位も要求することもできなかったとすると、おそらくは、確実に公共的生活のうちで、問いを立てる資格すらもつことができないのではないでしょうか。

DM: そう、私はその点にきちんと意識しています。私は実際には、そうは考えません。表面だけ見れば、最も役に立たないマイノリティという切り札を持っていることは、何らかの利益をもたらすもののようにみえますが、私が思うに、そうではないのです。というのも、もしあなたが——あるいは私たちがある点において特典つきのゲームをするとしましょう。もし、そのような特典つきのゲームに参加すると、私がゲイであることによって被っている特典の欠如は、男性であることや白人であることや、私の話し方などによって清算されてしまうに違いありません。つまりは読むことや書くことに精通していることによってです。

MK: かなり高い水準でね。

DM: それはどうもありがとう。お世辞へのお礼を言っておきます。しかし、私が思うのは——もし例を挙げるのであれば、ちょうど、私はよく覚えているのですが、イギリスのPeter Morganのテレビ番組に出てきました。私は、自分の本におけるいくつかの主題について、ある黒人のモデルと議論をしたのですが、彼女自身もスコットランド人で、彼女は話すのを止めようとしませんでした。私は、彼女はきっと循環呼吸の技術をもっているに違いないと思ったほどです。

彼女は非常に素敵な女性だったのですが、あまりに明らかであったのは、彼女は白人によって話を遮ってほしくないと思っていることです。あるときに彼女はそれを明言しました。彼女はこう言ったのです。「あなたたちのうちの三人は白人で、私だけが黒人ね、だから私は話し続けるのよ」。私が言ったように、私がゲイであるからといって、まったくといっていいほど、15秒程度の多くの時間すらも与えられはしませんでした(笑)

私の考えでは、確かに差し当たって、ある種の過剰の矯正とでもいうようなヒエラルキーが築かれてきたのです。それは非常に醜悪なもので、それを何とか止めさせたいのです。それは、私自身がもっと多く語るのを許されるとか、そんなことのためではありません。そういったことは私にとってほとんど重要なことではありません。というのも私は、誰かの許しによって認められたものとしての、話したり語ったり考えたりする権利などというものを重要視していないからです。

それは白人の問題でもなければ、ゲイの問題でもなければ、男性の問題でもない。ただ私はそれについてたくさん執筆をしてきた。私はたくさんの本を書いて、この主題について多くのことを考えてきた、それを思考してきたということなのです。そういう理由でこそ、私はそのことについて語る資格をもっていると考えているのです。ただ、これはちょっとあなたの問いに対する婉曲的すぎる答えだったかもしれませんが、あなたがいま指摘したことの中で、私がまさに心配していることなのです。というのもセクシズムやホモフォビアやレイシズムが存在してきたというのは歴史的事実なのですから。

そして、今日においてなお、そういった表現があるというのも事実なのです。私たち涅槃のうちに生きているのではないですし、ほとんどの人が、そのうちに生きることもないでしょう。けれども、ヒエラルキーをひっくり返して、報復や矯正というやり方によって、白人の男性に何らかの抑圧をすることが、それに対する答えであると考えること、それこそが私が非常に憂慮していることなのです。というのも、あなたがおっしゃるように、これらのことは、ただの理論上の問題ではないからです。結局のところ、若い男性はすべてのことについて黙っているように命令されることになります。すべてのことについてです。これこそが問題なのです。これこそが私が女性や性別間の関係について章を書いた理由なのです。というのも私は会話の経験から、あまりに多くの男性と女性が、このことについて語る能力をもちながら、それをすることを邪魔されていると思うからです。

MK: そうですね。私もそれによって公共的な議論の水準が下がっていると思います。といいますのも、ご存じように、私たちの友人であるFreddy Grayが、非常におぞましい「〇〇として」という視点で書かれたエッセイたちの話をしています。女性として、ゲイの人間として、あるいは何であれ何かとして、です。その種の論絶を読むたびごとに私が思うのは、わかったわ、でも獣医であるために馬であることは必要はないわよね!ということなのです。これは奇妙なことです、こういった「生きた経験」にまつわることは、奇妙な考え方です。

DM: そうですね。そして私が考えるのは、それらのエッセイの作者たちから学ぶことができるのは、そういったやり方が間違っているということです。というのも、すべての人が自分のうちに何か斬新な事をもっているという昔からあるお話、それは真実ではないのです。Martin Amisが言っているように、誰しもが想い出というものは持っているでしょう。多分ね。ただ地球上に存在する人間の数や生きられる時間の希少さのことを前提とするのであれば、人間の条件について、何らかの広がりを明らかにしてくれるような、本当に画期的なものは、その中でもほんの一部分の想い出だけなのでしょう。

そして、そのような画期的なことは、無条件にあらゆる方向性からやってきうるものですし、そういうものであったとも思います。その点について私に疑いはありません。それがどういった方向性からだけ来てほしいかについての特別な偏見も私にはありません。偉大な真理は、あらゆるところからやってきうるのです。そしてそれこそが、真実というものの偉大さの一つでもあります。しかしながら、もしある特殊なマイノリティやマジョリティだけから、より真実が明らかになると考えるとすれば、それまさに私たちが立ち入るのを避けた方がよいと考えた世界の一つへと嵌りこんでいくことになるのです。

(2)終わり (3・終)に続く

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