【ユンゲ・フライハイト紙】ゲスト寄稿: もっと気骨をふるおう!②(完)

家族の崩壊
父親として、同時にまた祖父として、最後に挙げられた弊害こそ、とりわけ私には嘆かわしいもののように思われる。すなわち、望ましい社会のお手本としての家族の崩壊である。それに対して、ひとは身構えなければならない:

数十万年にわたって人類は、狩猟者や採集者からなる小集団のうちや、誰もがお互いのことをよく知っているような部族社会や氏族社会のうちで生活をしていた。そこには自然なヒエラルキーや規則があった。それなくしては、ひとは生き残ることができなかったからである。そこにはまた、獲物の分配も属していた。これらすべての行動様式は、私たちの本能や遺伝のうちに深く刻みこまれている。

これが近代以前の見透し可能な社会である。現代においては多くのものがもっと複雑である。私たちは一つではなく、二つの世界を生きている——一方においては、小規模で温かみがあり、私たちに慣れ親しんだ家族や友人の世界があり、そこでは私たちの原始時代からの行動の範型が、なおも有用で意味あるものである。他方においては、大規模で冷淡な匿名の労働分業の世界であり、そこではまったく異なった規則や行動様式が問題となる。

人類史的に見ても、この二つの世界における生というのは、ごくわずかな時期を包括しているだけなのだが、私たちに厄介な問題を与えており、とりわけ私たちが遺伝的な傾向や、小規模で温かみがあり、慣れ親しんだ家族や友人の世界を、大規模で冷淡な匿名の労働分業からなる巨大な社会へと移植しようとするときに、ときおりそれは致命的なものとして現れてくる。この広範囲に流布した多くの人間の致命的な傾向を、社会主義的な社会実験であると指摘するのは、深くに根ざした石器時代からの本能なのである。

無反省に国家へと訴えかけること
左翼の最大の矛盾は、このような人間学的前提を全体として否定しておきながら、見透し可能な部族社会の規則をより広大な規模の労働分配的な社会へと移譲することを望むことでまた、同時にもっぱらこの石器時代的本能に従っていることである。

事実上の困難の本質は、ひとがそれぞれに異なった行動の規則のうち、一方を他方に移植しようとするところにある——このことは、近代という時代の大きなジレンマであり、ここで私がパラフレーズしている経済学者フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクが、すでに言及されたイレネウス・アイブル=アイベスフェルトに依拠しながら、気づかせてくれている。大規模な世界の冷淡さは、すべての家族や友情を破滅させてしまうが、小規模な世界の温かさもまた、あらゆる大規模な社会を壊してしまうのである。保守主義者が学ばなければならないのは、二つの世界を同時に生きることである。自分の目的を達成するために、無反省に国家に訴えかけることは許されないのだ。なぜかとといえば、それは結局のところ、彼が手に入れたいものをだめにしてしまうだけだからである。

この間違いを、左翼——連邦首相とその政府も含める——は難民危機においてすでに犯してしまった。彼は、冷静な合理性が必要であったはずのところで、冷淡であるという非難を回避するために、難民危機という窮状において「温かな」連帯の規則を適用したのである。冷淡だと思われたくないということは、人間の石器時代的な本能に深く根ざしている。そして、時折それによって、温かな世界の規則を冷淡な世界に移植しようとする人びとにとっては、よい人だと思われることが、事実的によいことをすることより大事になってしまうということになるのだ。

楽観主義こそが義務である
社会国家を同時にすべての人に開かれた境界において築くことができるという、倫理的にも、論理的にも、法的にも、経済的にも、政治的にも、文化的も完全に間違った観念は、過ちと認識されるどころか、それこそが人間的で、他に選択肢のないものと感じられており、このことについて別の見方をする人は、冷淡な心をもった極右かファシストかナチか人類の敵となってしまう。そうやって、ひとは人生というものについての左翼の思い違いのうちで泥浴びを続けて、ひとが恋焦がれている多彩で寛容で平和的な世界から、どのようにブルカのように真っ黒で、非寛容で、構想の可能性を孕んだ世界が生まれてくるかに、まったく気づかないのである。

その際に、左翼は自らの願望する世界を失うことになる。なぜなら、もっぱら暖かい世界の規則を冷たい世界に移植することによって、彼らは同時に二つの世界に生きることを成し遂げえないからである——よろしい、右翼に対する闘争においては、ひょっとしたら彼らは例外を為すかもしれない。つまりは、石器時代に由来する本能を無視するのである。似たような運命が保守主義者をも脅かしている。

最近の数十年間において、ドイツは、左翼の社会工学の巨大な実験室になってしまっている。ここで浮かび上がってくる問いは、この実体の喪失は不可逆のものなのかということである。不信による社会とそのすべての前提。デカダンスの現象と規律の退廃。二つの世界を生きることの困難。カオスと方向性喪失。保守的な政治家として、ひとはその問いに否と答えなければならない。というのも、それ以外にひとは何のために政治をするべきなのだろう。楽観主義こそが義務なのである。

しかしながら、このような楽観主義は、ひとが勇気ある同志を側にもつときに、より大きくまた、しっかりとしたものになる。それは既存の安楽な小さな世界にどっぷりと浸ることなく何らかの危険を冒すことのできる人々、真の保守主義者である。それは、このような実体の喪失を目の当りにしながらも、にもかかわらず何もしない、他人に冷や水を浴びせながら自分は安逸をむさぼり、自分の快適な世界から出てくることをせずに、言葉では左翼風に、行動では右翼(保守)風に過ごしている連中の事ではない。従来のリスク回避型の保守主義は、事実が問題になるときには、自らの本性をふり捨てなければならないのである。彼にとっては、わずかな勇気が、とても必要になるのだ。それなくしては何も起こらないのだ。

https://jungefreiheit.de/debatte/forum/2019/mehr-mumm-wagen/

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