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2023年2月 - 今月のスナップとエッセイ

時候の挨拶

 花粉症ではないと思っていた。毎年、春先に涙と鼻水を流しながら、全身を搔きむしる。しかし「これは花粉症なんかではない!」と、強く思っていた。

 だが、諦めた。もう耐えられない。わたしは、髪を振り乱して、診察室に飛び込んだ。わたしの姿を見るなり、医師は言った。「これはひどい花粉症ですね。薬出しておきます」と。その薬が効いたとき、今までの我慢大会を悔いた。それが2年前。

 夫婦で、アレルギー検査を受けた。彼もかなりのアレルギー体質だ。花を見るだけで、鼻がムズムズするという。
 夫のついでにと思い、わたしも調べてもらった。結果、彼よりわたしのほうが、アレルギー体質だと判明した。それが1年前。

 今年は、事前に薬をもらった。
 内服薬、点眼薬、点鼻薬。三種の神器。完璧だ。
 スギよ。この我に、勝てると思うか?

 そんなわたしは、今、部屋で涙を流し、鼻をすすり、キーボードを打っている。
 「スギ花粉の飛散量は去年の〇〇倍」と、毎年のように聞く。スギよ。その生命力に感動する。いや、感動して涙が出ているわけではない。

 ああ、もう!全部、花粉のせいだ。

 され、春の足音が聞こえてくるなか、皆さまいかがお過ごしでしょうか?

アラサーの階段昇る

 先日、20代最後の誕生日を迎えた。
「今年から、四捨五入したら30歳だ!」なんて思っていたのが、つい最近のことのようである。ほとほとアラサーになってしまった。

 ふと、10年前の写真を見返した。
 10代最後の年は、何をして過ごしていたのだろうか。

 Googleフォトを開く。指先で流れる写真。引き込まれていく。
 慣れないひとり旅。大親友と出逢った日。大学の講義メモ。愛猫も両親も、今よりずっと若い。
 振袖を着たわたしの姿。父とともに呉服店を訪れ、振袖を選んだかの日を思い出した。19歳のリアルが、そこにあった。

 当時は、今のようにカメラの知識もなかった。撮りたい時に、撮っていた。感性のまま、撮っていた。

 記憶は、一瞬で蘇る。
 写真は、まるで魔法のようだ。それか、記憶の貯蔵庫とでも名付けようか。当時の幸せが、この胸を満たしていく。光が溢れていた。

 一方で、あの頃は、とにかく悩みが多かった。
 もがいても、もがいても、先の見えない苦しみと戦っていた。つらい記憶が多いのも事実である。

 しかし、なぜだろう。写真を見返したら幸せな気持ちになった。

 そして今、気がついたことがある。当時のわたしは、わたしが感じる幸福に、シャッターを切っていた。食べ物、人、景色。ささやかな幸せを、上手に見つけていたようだ。

 暗闇に差し込む光を、探していた。
 写真は、わたしにとって光だった。

 当時抱えていた悩みは、未熟で滑稽なものも多かった。それは、「今思えば」だからである。

 誰だって、今を生きている。その今が、必死なのだ。
 それを、この20代で知った。

 アラサーの階段昇る。今、来た道を振り向く。懐かしい景色が広がる。
 この階段は、わたしが作ってきた。だからわたしは、かつての日々を、自分を、決して馬鹿にはしない。どんなにちっぽけで、おかしな自分でも、決して馬鹿にしない。

 29歳、誕生日当日。夫は「おめでとう」と何十回も言ってくれた。そんなに言われたら100歳になっちゃうよ、と心の中で笑いながら「ありがとう」と言った。

 今月は、夫と母も誕生日を迎えた。夫にはピザを、母にはコルネットを焼いた。結婚記念日には、夫婦ふたりでお祝いをした。

 もちろん、写真も撮った。

 わたしは今も、幸せにシャッターを切っている。小さな幸せも大きな幸せも、大切にしていこう。そして、強くしなやかに、残りの20代を楽しみたい。

交わす言葉とシャッター音

 同志と写真を撮りに行った。普段、ひとりでスナップすることが多いため、大変刺激的な行動であった。

 静岡に、遠くから、写真仲間ふたりがいらっしゃった。
 同じ空間で、それぞれの感性と向き合う。目の前の被写体に対して、それぞれが違うように捉えていたり、自分では見つけられない視点に気づかされた。これだから、写真は面白い。

「今年の富士山は、雪が少ないのよ」
 富士のふもとの食堂で、女将さんは言った。そして「富士山見えるといいねえ」と続けた。わたしたちは、美味しい料理を頬張りながら「そうですねえ」と言った。

 それもそのはず。

 空は、朝から分厚い雲に覆われていた。もちろん富士山も雲隠れ。遠方からの来客があるのに、大変な恥ずかしがり屋だ。

 昼下がり、富士山にかかる雲に切れ間が見えた。皆で「あと少し!!」と言いながら、山頂が見えるまで待った。

 束の間、富士山が顔を出す。
 その瞬間、歓声が上がった。

 富士山。わたしにとっての日常だ。しかし、わたしの日常は誰かの非日常。それに寄り添い共有できる時間は、とても幸せに満ちていた。

 2月の空気は冷たくて、笑い声は温かかった。

山茶花の 心のかたち ここにあり 
残雪と 頬のぬくもり いつまでも

PHOTOGRAPHY_202302

 スマートフォンが普及し、カメラで写真を撮る意義が問われている間に、AIが写真を生成する時代となった。
 果たして、わたしたちが写真を撮る意義は、失われてしまうのだろうか?

 答えは、「No」だ。
 人間が写真を撮る意義は、失われない。そう信じている。

 何気ない日常スナップ、人生の節目の記念写真、自己表現としての写真。記憶や想いとリンクする写真は、これからも、わたしたちの手で、撮られ続けていく。

 AI写真と、人間が撮った写真は、今後より差別化されていくと考えられる。

 AIは、人間が撮ることのできない写真を撮る。デジタル技術を駆使し応用して、生活に役立てるようになるだろう。
 一方で、人間は、より撮影者の感性を生かした写真を撮るようになる。同じ空間に立っても、写真を撮る視点は個々に違う。撮影者の想いが、写真には反映されるのだ。被写体・光・構図、そして撮影者の想い。わたしたちの写真は、どんどん人間臭くなっていくのかもしれない。

 その価値は、これからも失われることはない。わたしたちがそう信じ、写真を撮る限り、失われはしない。

 変わりゆく時代を、静かに見守りたい。
 わたしは、わたしにしか撮れないものを撮りながら。

 それでは、良い写真生活を。

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