泳げない海亀 #89(Stay gold)
何年住んだのだろうか。
家賃五万円の都心から離れた郊外の安アパートの一室で昇太は荷造りしながらふと思った。
学生の時分から生活したその部屋は当時の思い出も沢山あった。引き出しの奥をあされば自作したフライヤーや、初めて制作したデモテープがごっそり出てきた。ライブハウスで共演したミュージシャン達から貰った音源も沢山ある。そのほとんどが日の目を見ずに消えてゆき、今ではまさに夢の欠片がそこにうもれていた。
音楽の興奮と希望、そして闇。
様々な側面を垣間見る事が出来た自分はひょっとしたらミュージシャンとして幸せだったのかもしれない。
あらゆるものを犠牲にした。
それが良かったのか悪かったのか今となっては分からない。後悔が無いとは言えないが、今の自分を卑下するつもりもない。
ダンボールに詰め込みながらそんな事を思い、ふと出てきた昔の写真に手が止まる。
ライブハウスの前で四人が写っている。
その表情はまだあどけなく、無垢のままのミュージシャンだ。
光明のはにかんだ笑顔の横でカメラに向かい舌を出し中指を立てる忍、それを見て笑う昇太に無表情ながらもピースサインを決め込む隼人。
金も人気もなかったが、充実していた。
「みんな若いなあ」
背後から声が聞こえ、ギョッとして振り向くと楓が写真を覗き込んで笑っていた。突然の事に昇太は大声を出し腰を抜かす。
「どうやって入ってきたんだ」
「カギ、まだ返してなかったでしょ」
しばらくぶりに耳にした楓の声はまるで変わりなく、昨日までそこにいたような気になる。
「凄い髭だね。いい加減髪も切りなよ」
眉を寄せて昇太を見る。
「何しにきたんだ」
「冷たいなあ。全部見てたのに」
「え?」
言葉の意味が分からない。
「ストリートライブもあの野外フェスもソロでやり始めた頃から。え?気がつかなかったの?」
別れたあの日以来昇太のパフォーマンスを欠かさず見ていたという。そう言えば自分のやりたい事だけで客など目に入らなかった。
「本当か?」
「うん」楓は満面の笑顔で頷く。
「ただのストーカーじゃないか」
「そう、ただのストーカー」そう言って楓は照れ臭そうに頭をかいた。
「音楽、辞めるんだ?」
それには何も答えなかった。
「私の知らないところで色々あったのかもしれないけど」
楓は窓の桟に手をおいてお世辞にも良いとは言えない景色を眺めている。
「最後のステージはカッコ良かったよ」
音楽を志す動機なんてものは大概不純だ。
女にモテたい。
目立ちたい。
それが初期衝動である。楓の言葉にいつの間にか忘れていたそんな感情を思い出し、単純に嬉しくなった。
「そうか」
照れ隠しに再び写真を眺める。あの頃の忍が
「女に褒められて浮ついてるんじゃねえよ」
と毒づいてきそうで、昇太はそっとダンボールへと写真をしまった。
続く
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