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泳げない海亀 #90(Bite the bullet)

 柊はネルソンレコーディングスの社長室の前に立っていた。ノックをすると「どうぞ」と聞こえ、ドアを開け中へ入る。デスクの後ろに嵌め込まれた大きな窓から外を眺めている大男がゆっくりと振り返った。
「久しぶりね」
 柊はその声に一瞬身体を強張らせる。
「どうなってるのよ?」
 主語のない問いかけだが、何を指しているのかは分かる。
 ワクの事だ。
 サンアンドロックフェスティバルが終わるとすぐに連絡が入り、探りを入れて欲しいと密かに頼まれていた。
「彼は」言いかけて唾を飲み込み、再び口を開く。
「彼はもうこの世界に戻ってくる事はないと思います」
 ネルソンは眉を上げる。
「もうそんなところまで追い込んだの?あんたも相変わらず非情ね。あたしは彼の素性を知りたいと言っただけよ?」
 ネルソンは気に入らないアーティストがいると必ず柊を呼び出し、探りと称して「潰し」にかかった。

          ✴︎


 まだ知り合いや無名のアーティストばかりを集めイベントを開催していた頃、ネルソンと出会った。当時、ネルソンレコーディングスは看板アーティストを量産し、下北沢界隈では絶大な人気を誇っていた。
 そんな人気レーベルのオーナーと知り合えた事は柊にとって大きなステップであった。様々な人気ミュージシャンを招聘出来るようになり、集客は倍増、なにより多くの人脈を作ることが出来た。そして今やロックフェスティバルを開催するまでに至る。
 だが、そのほとんどはネルソンの暗躍があり、柊もそれを知っていた。

「まず踊り場まで駆け上がることが大事なのよ。その踊り場までの階段を登る事に皆苦労するのだけど、そんなの私にかかれば容易い事だわ」
 ある時、ネルソンはそう語った。
「もっと重要なのはその踊り場の先にあるエスカレーター。それに乗れるか乗れないかが人生を左右するのよ」
 分からない顔をしている柊をネルソンは鼻で笑った。
「だからね、人気なんてものはある地点まで到達すると後は本人ですら制御できなくなる。後は周囲が勝手にその運命を決めていくのよ。よく言うでしょ、お金がお金を産むとか。それと一緒」
 そして目つきを変えた。
「だから、あたしがその踊り場まで連れて行ってあげる。あんたはその先のエスカレーターに乗りなさい」
 正直、恐ろしいと思ったが、柊はなすがままになった。いや、あえて断らなかったのかもしれない。だから彼の依頼には出来る限り協力していた。
 しかし、それが商いとしての方法論だとしても果たして自分の役目といえるのだろうか。ワクに出会ってそう考えるようになった。
 目の前の巨大な闇に迎合ばかりはできない。

「僕は追い込んだりしていません。ただ、彼自身もうこの世界に未練はなさそうです」
 はっきりとそう言うと柊は踵を返した。
「あんたも同じ様な事考えているんじゃ無いでしょうね?無駄よ、あたしに歯向かうのは」
 背後から冷たいものを投げつけられたようで不快だった。
「歯向かうつもりなどありませんよ。ただ、僕は僕の好きなようにやろうと思います」振り返りネルソンの目を見据える。
「そう。それならあんたともこれで決別ね。後は好きにしなさい。ただし、あたしの邪魔しようものなら容赦はしないから」
 柊は一礼すると部屋を出た。足取りは軽く今にも走り出したい衝動に駆られ、ふっと笑みがこぼれた。

続く

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