【治承~文治の内乱 vol.54】熊野騒乱(後)
治承4年(1180年)8月半ば頃から熾烈さを増していった熊野の田辺別当家の内紛は、11月中旬に湛増が朝廷に恭順の姿勢を示したことで鎮静化し、以後湛増の目立った動きも見えなくなりました(vol.52)。
しかし、12月末には熊野別当(当時の熊野別当は範智)以下の者たちが平清盛に背いたとウワサが流れ、これは直ちに誤報と判明するものの(※1)、こうしたウワサが出ることからして、依然熊野では紛争の火種が燻っていたことをうかがわせます。
暴れ回る熊野の武装集団
年が明けた治承5年(1181年)正月早々、静かになった湛増の代わりとばかり、「熊野辺の武勇の者」「熊野の悪徒」と呼ばれた熊野の武装集団が、隣国である伊勢国や志摩国に乱入、狼藉を働くという事件が起こります。
藤原(九条)兼実の日記『玉葉』によれば、1月4日に「熊野辺の武勇の者」らが兵船50艘ばかりで伊勢国に討ち入って、現地の官兵を射殺し、なお300人程の者が居付いているというのです。
これに対して、朝廷は1月12日付で伊勢国宛てに彼らを追い出すよう宣旨(命令書)を出しますが、「熊野の悪徒」らの乱暴狼藉はその後もしばらく続き、1月下旬~2月上旬ごろになると、志摩国にある伊弉宮(伊雑宮 ※2)周辺を焼き払って、いよいよ伊勢神宮の内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)方面にも侵攻の構えを見せます。
しかし、そこへ官軍の和泉守信兼(平信兼)の軍勢が駆け付け、「熊野の悪徒」らを少々討ち取り、その他の者たちは海上へ逃げ去って撃退に成功したといいます。
また、『吾妻鏡』にもこの事件を指すと思われる記述があり、こちらはより詳細に記されています。
それによれば、関東の健士(ここの場合は“勇ましい者”の意)が南海(ここの場合は“熊野灘”の意)をめぐって上洛してくるとのウワサがあったため、平家は紀伊半島や志摩半島の浦々に家人たちを配置して警固させました。すると、志摩国の菜切島(※3)を警固していた伊豆江四郎という者の許に「熊野山衆徒」らが襲来。江四郎の郎従(郎等)の多くが負傷して、江四郎自身は大神宮(伊勢神宮)の鎮座する神道山(神路山)(※4)を経て、宇治岡(※5)へと落ち延びたといいます(※6)。
その後、「熊野山悪僧」らは伊勢志摩両国の各所で合戦を行い、1月19日には浦七ヶ所ですべての民家において略奪行為を行いました。この間、警固していた平家の家人たちは要害の地を捨てて逃亡したり、討たれたり、または負傷したりと熊野山悪僧らを防ぎ止めることができなかったため、いよいよ勢いに乗った悪僧らは1月21日に二見浦(三重県伊勢市二見の海岸)の人家を焼き払って、四瀬河原(※7)に進撃。すると、船江(伊勢市船江)付近で関出羽守信兼(平信兼)とその甥である伊藤次の軍勢と遭遇、直ちに合戦となって、悪僧らのリーダー格であった戒光に信兼の矢が当たるなどして劣勢を強いられると、たちまち悪僧らは二見浦まで後退、30~40歳くらいの下女や14・15歳くらいの少年ら30人余りをさらって、熊野方面へ舟を出して逃亡していったと記されています(※8)。
さらに『吾妻鏡』では、伊勢神宮の大中臣能親という者から鎌倉にいる中八惟平の許に書状が送られたとあり、その書状では、去る19日(治承5年1月19日)に「熊野山の湛増の従類」と称する一団が伊雑宮(伊弉宮 ※)に乱入して御殿を破壊し、神宝を犯用(盗み取って用いること)したため、一の禰宜成長神主の指示で御神体を内宮へ遷す処置を行いましたが、湛増の従類と称する一団は引き続き山田・宇治両郷(※9)へ襲来して、人家を焼き、資財を奪い取ったことが報告されています(※10)。
この他、伊勢神宮に関連する施設や所領をはじめとする伊勢・志摩両国での被害は『玉葉』や『吾妻鏡』に記されるもの以外にも多数あったようで、内宮(皇大神宮)が平信兼や平重衡に宛てるために書いた牒状(廻し文、回覧)の草案(下書き)には、阿曾御園(三重県度会郡大紀町阿曽)の家々が焼かれたり、鵜方御厨(三重県志摩市阿児町鵜方)が襲撃を受けて資財が盗み取られたりしており、宇治郷の朝熊山では多くの強盗が現れて、往来の商人などが襲われて荷物を奪い取られたり、伊勢・志摩両国の道々での狼藉は数えきれないほどと記されていて、かなり治安の悪い状態に陥っていたことがうかがえます(「皇大神宮神主牒案」〔『神宮雑書』〕)。
なお、この熊野の武装勢力の襲撃は伊勢・志摩国だけでなく、他の近隣諸国にも略奪の手が及んでいました。
治承5年(1181年)2月には、「熊野の法師原」が阿波国(今の徳島県)を襲撃。民家を焼き払って雑物・資財・米穀など様々なものをことごとく略奪していき(※11)、翌月の閏2月にはやはり「熊野の法師原」2000人が尾張国へ進入しています(※12)。ただ、この尾張国進入は、この時尾張国へ進出してきていた源行家(新宮十郎、頼朝の叔父)に与力(加勢)するためと想定できることから、これは従来の略奪目的ではなくて政治的な動きだった可能性があり、この時の「熊野の法師原」2000人は行家と繋がりが深い新宮の軍勢だったのかもしれません。
熊野の武装集団と湛増との関係
前節でお話しした「熊野辺の武勇の輩」「熊野の衆徒」「熊野山衆徒」「熊野山悪僧」「熊野の法師原」などと呼ばれた熊野の武装集団の動きはどういうことだったのでしょうか。また、彼らが「熊野山の湛増の従類」と称したと『吾妻鏡』の記事にありますが、この熊野の武装集団と湛増との関係はあったのでしょうか。
これらの疑問について、まず近代神道史学の先駆者として知られる宮地直一先生(1886年~1949年)は、熊野灘が元から海賊の横行する海域であり、熊野の衆徒の中には航海術や海戦に巧みだった者も多かったとされ、この当時は平家の権勢が大きく傾き、熊野の重鎮たる湛増も昨年(治承4年〔1180年〕)11月以来目立った動きをしなくなっている情勢を背景として起きた海賊行為であり、その海賊行為は彼らが従来から行っていた常套手段とすべきかと述べられておられます。
そして、伊勢・志摩国を襲撃した事件においては、彼らの略奪や破壊が沿岸部の漁村や庄園などに対してであって内陸部にまで及んでいない点や領土拡張などの一定の目的をもって行なわれたものではない点から、“衆徒の輩の放恣(勝手気まま、やりたい放題)に出でし現象”とするのが適切であって、これを湛増はじめ他の熊野僧綱(寺社の管理職に就く幹部)等が関知、または指示するということは、文献上わずかな証拠すら見いだせず、事件の経過を顧みても疑わしいとされています。
その上で、この時の衆徒らの行動は、熊野の動きと分離して考えるべきであって、衆徒らが平家の守将と交戦に及んだのは略奪の障害を除こうとしたものであり、平家を攻撃しようとしたものでも、源氏の為に戦ったものでないとされています。
一方、高橋修先生は『吾妻鏡』(治承5年〔1181年〕3月6日条)の大中臣親能が中八惟平《ちゅうはちこれひら》へ送った書状の中にある「熊野山湛増之従類」と熊野の武装集団が称していたことを重視して、この軍事活動に湛増の関与があったことは間違いないと見ておられます。
そして、湛増が反平家の立場にあったことを前提とされた上で、熊野にも強圧的な支配を及ぼしつつあった平家に不満を募らせていた熊野の海の民を水軍に組織して「熊野水軍」を創設、反平家の戦いに駆り出したと述べられます。さらに、この水軍を伊勢・志摩国に進めたのは、軍事力がはるかに劣る伊勢神宮の所領が多く、またこの地方が平家の本拠地にも近かったため、平家主導の政権に揺さぶりをかける狙いがあったとされています。
さて、このように両先生の御見解は真逆の見解となっていますが、ここで少し検討してみます。
まず宮地先生が述べられる「熊野灘が元より海賊の横行する海域で、伊勢・志摩国への海賊行為は従来から行われていたものだった」とする点について。
これは確かに肯定できるご指摘で、例えば永久2年(1114年)2月には“熊野先達”と称する一団が伊勢国神郡(度会郡や多気郡など神領〔この場合は伊勢神宮の神領〕として割り当てられた諸郡)で悪事を行い、とりわけ遠江(静岡県西部)・尾張(愛知県西半分)・三河(愛知県東半分)の海域で海賊が横行して、供祭物(お供え物)を奪い取るといったことが起きており(※13)、その同じ年の8月にも南海道(紀伊・淡路・讃岐・阿波・土佐・伊予)に海賊が乱発して諸国からの運上物(年貢物などの上納品)が奪い取られ、熊野別当や俗別当に事情を尋ねる(実質取締りを強化するよう促す)検非違使庁からの下文(命令書)が送付されるといったことも起きています(※14)。
つまり、この治承5年はじめの熊野の武装集団による伊勢・志摩・阿波などで起きた海賊行為は何ら特別なことではなく、熊野別当家が内紛などによって彼等への取締りが弱まってしまったことにより、海賊行為が再び活発になって起きたものと見ることもでき、反平家のための軍事行動であったと断定できません。
次に、高橋先生が述べられる「湛増の積極的関与」について。
高橋先生は先にもお話しした『吾妻鏡』の記述を論拠として湛増の積極的関与はあったとされていますが、治承5年(1181年)の伊勢・志摩両国における襲撃事件に関する他の史料、例えば先に挙げた「皇大神宮神主牒案」(伊勢神宮側の史料)を見ても“湛増”の名は見えずに“熊野山逆賊等”とあって、湛増の関与がうかがえません。
さらに、熊野三山は伊勢神宮と従来から協力関係にあったようで、例えば天養1年(1144年)10月21日に起こった大庭御厨(皇大神宮〔伊勢神宮内宮〕領)乱入事件の際には、御厨内に保管されていた熊野宛ての800余石の米が行方不明になり、同地を訪れていた熊野の神人らが殺傷されるといった被害を受けています。このことから伊勢神宮と熊野三山は年貢物の運搬などで協力していたことがうかがえます。そこで熊野権別当の立場にいた湛増がわざわざ伊勢神宮との協力関係を壊して、各地にある熊野の所領からの物品納入が滞るようなことを指示するとは考えにくいです。
また、この時の熊野の武装集団に襲撃を受けた伊勢・志摩両国の地点を見れば、海に比較的近い”軍事力がはるかに劣る”地点が多いのですから、むしろ彼らの海賊的性格を如実に表しているとも見ることができ、かつ、襲撃の経過を見ると、熊野の武装集団はいくつかの集団がそれぞれ別個に動いていた可能性も見えることから(※15)、組織的に何らかの政治的意図をもってなされたものと思えません。
以上、これらのことを総合すると、治承5年の熊野の武装集団による伊勢・志摩襲撃事件に湛増の積極的関与はなかったと見るのが妥当だと思われます。
行命法眼襲撃事件
治承5年(1181年)の前半は熊野の武装集団が近隣諸国で暴れ回る様子が史料でわかるものの、熊野では前年(治承4年)11月以来、特に目立った動きがなかったようで、史料からその様子をうかがうことができません。
ところが、この年の9月下旬から10月上旬(7月に元号変わって養和に)にかけて熊野で大きな動きがあったようです。それは『玉葉』の記事によるもので、9月下旬ごろ「熊野の法師原」が一同謀叛を起こして鹿瀬山(鹿ヶ瀬峠 ※16)を封鎖したといい、紀伊国の知行国主(その国の国司任命権を持ち、その国からの収益を得られる人)である平頼盛(清盛の異母弟)がその追討使として下向することになったといいます(※17)。そして、10月上旬になると、官軍方(朝廷方)であった熊野の行命法眼が「志賀在庁の者」によって襲撃を受け、行命の子息や郎従らが一人残らず討たれた上に、行命自身も辛うじて熊野山中に逃げ込んだものの安否不明という事態となって、これ以後熊野は反乱勢力によって統一されたといいます(※18)。
一体この時熊野で何が起こったのか。
まずこの時襲撃を受けた行命という人物は『熊野別当代々次第』によれば、南法眼とも言い、平家(朝廷)によって熊野別当に補任されたものの、熊野の衆徒たちはこれを認めなかったようで、熊野三山に詣でることも叶わずに平家の許に身を寄せ、最終的には関東(鎌倉方)に捕えられて流罪に処され、後に許されて都(京都)へ戻って、そこで没したとあります。
ただ、この行命という人物は『熊野別当代々次第』では歴代の熊野別当に数えられておらず、彼についての記述は第20代熊野別当・範智(新宮家)の項目に記されています。また、『続群書類従』所収の「熊野別当系図」では、行命は第19代熊野別当・行範(新宮家)の子とされていますが、母親は他の兄弟と違って源為義(頼朝の祖父)の娘ではなかったようです(「熊野別当系図」に載る行範の子は全部で8人。そのうち行命と善豪の2人は母親が記されていません)。
そして、行命を襲った「志賀在庁の者」というのは、紀伊国日高郡にあった志賀庄の管理にあたっていた者と考えられ、この志賀庄は新宮の御師として“志賀正上座盛院”という者がいたことから(※19)、当時は新宮領だったと思われます。つまり、行命を襲ったのは新宮の衆徒だった可能性が高いです。
さて、そこでこれらの情報をもとに推測すると、この行命襲撃事件は、おそらくこの頃没したと思われる(※20)範智(第20代熊野別当)に代わる新たな熊野別当として行命が平家(朝廷)によって補任されたものの、源行家に協力的で反平家の立場を取る新宮の衆徒らがそれを認めず、行命を排斥しようとして起こったものと考える事が出来るのです。
その後の熊野
行命襲撃事件後の熊野は、藤原(九条)兼実が反乱勢力によって統一されたと記しますが、その後熊野勢が本格的に朝廷(平家)に反抗した様子がうかがえない上に、同じ紀伊国に平家の有力家人であった湯浅宗重という者がおりましたが、この時点で彼と熊野勢が交戦したという記録はありません(だいぶ先の屋島の戦い後に戦ったという話ならあります)。
そして湛増ですが、彼のこの頃の動静としては、養和1年(1181年)9月の上旬(熊野の反乱勢力が鹿瀬山を封鎖する前)に坂東へ自ら赴いたらしく、すぐに湛増は謀叛の事で坂東へ赴いたのではないことを後白河院に使者を通じて伝えてきています(※21)。
一体なにをしに湛増が坂東へ赴いたのか、これを記した藤原(九条)兼実も不審がっているように、なにやら怪しい動きをしていたようですが、これ以後湛増の動きが再び活発になるわけでもないことから、彼の目的や意図など詳細は不明です。
ただ、時期は不明ながら湛増と対立をしていた弟・湛覚も結局熊野を追われることになったようで、寿永2年(1183年)11月の時点で後白河院の許におり、源(木曾)義仲によるクーデターの際に院方として討たれたことがわかっているので、遅くともこの時までには湛増が田辺別当家(田辺家)の内紛を収めたようです。
なお、養和1年(1181年)9月下旬に「熊野の法師原」が鹿瀬山を封鎖したことにより、紀伊国の知行国主であった平頼盛が追討使として下向することになりましたが、結局頼盛が下向することはなかったらしく、10月10日には頼盛の子息2人(保盛・為盛か?)が熊野に下向することに変更(※22)、さらに16日には為盛だけが下向したといいますが(※23)、実際に下向して熊野の謀反の者たちが討伐されたのかまでは判明していません。
また、治承5年(1181年)初頭に見られた熊野の武装集団による海賊行為は、その年の後半に入ると、その活動が全く見られなくなります。単に記録として残されていないのか、それとも実際にぴたりと止んでしまったのか判断に苦しむところですが、海賊行為が止んだとすれば、田辺別当家の内紛をはじめとする熊野の騒動が収束の方向に向かって、再び熊野三山による彼らへの統制が強まったことによるもの、もしくは前述の追討使派遣の成果によるものと考えられます。
おわりに(熊野の情勢変化と湛増)
高橋修先生は、養和1年(1181年)9月下旬から10月上旬に見られた情勢変化についても湛増主導による動きと見ておられ、湛増は水軍(熊野の武装集団)をその軍事力の中核として伊勢・志摩方面での軍事作戦を成功に導く事によって熊野三山の実権を握り、反対者を駆逐することができたとされます。
確かに湛増と対立していた湛覚がやがて熊野を追われたらしいことや、後に「熊野水軍」と呼ばれる勢力が源氏方として対平家戦に参戦するなどして熊野に組織的な勢力が誕生していたらしいことを考慮すると、田辺別当家の内紛を制して熊野での有力な勢力となった湛増がその中心的人物になったと考えるのは何ら不思議なことではありません。
しかし、先にお話ししたように、熊野の情勢変化をもたらしたのは湛増ではなく主に新宮の勢力であったことをうかがわせ、その新宮の勢力と湛増との関係がどのようなものだったのか、またどのように変遷していったのかが不明であり、当時熊野別当不在と思われる状況下で熊野三山はどのような統制が取られていたのかなどわからないことが多く、その説明を高橋先生はなされておりません。
さらに、このあと数年にわたって熊野の動静は伝わっていないことから、熊野は他地域に比べて落ち着いた状況だったと考えられ、高橋先生がおっしゃる熊野三山の実権を握って反平家の立場を取っているはずの湛増の活動が活発になっていないのも妙です。
湛増はだいぶ後のことになりますが、やがて第21代熊野別当に就任することになりますので、田辺別当家の内紛をおさめたのちは力を蓄え、徐々に熊野の実力者として台頭していったことは想像に難くありません。
ですが、この頃の湛増は熊野三山の掌握を目指すというより、兵乱が各地で起こる天下の情勢にあって、新宮の勢力と協調を図りつつ、田辺別当家の当主として別当不在の状況下にある熊野三山の態勢を整え、強化する一翼を担っていたのではないでしょうか。
ということで、今回はここまでです。
vol.52~vol.54にわたって熊野の話をさせていただきましたが、最後までお読みくださりありがとうございました。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます。