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【読書】きげんのいいリス トーン・テレヘン 訳 長山さき

“ほんものっていったいなんだろうね。いろんな解釈があるとぼくはいつも思っているけど”


ここに書かれているのは

きっと、大人になればなるほど忘れていく原色の自分について

だれも答えてはくれないし、だれも答えなど知りもしない

自分だけの〈願い〉と〈疑問〉が隠されたどうぶつたちの物語

◆あらすじ

 

下心から約束をして、裏切られたクモ
自分がカメだと確信が持てなくなったカメ
ひっくり変えることが夢なのに、片足を動かせないサギ
極度の疲労から、泥の下へと沈み込んでいったカブトムシ
自分がへんかどうかを気にして、リスと入れ替わろうとするタコ
長いあいだ強く願い続けて、ついに宙を浮かぶことのできたハリネズミ
海底にひとり、大きな声で仲間を呼べずにひとりぼっちの誕生日を祝うイカ
どちらが高く飛べるのか競い合うコオロギとカエル、その争いに巻き込まれたカタツムリ
空を飛び、何度アザをつくっても木にぶつかり、木から落ちる〈く〉の字しか知らないゾウ
じぶんの灯りが消えやしないかと恐怖するホタルと、世界から灯りが消えるようにと願うミミズ
じぶんの誕生日にだれも食べられない硬いケーキを作ってしまい、誰にも祝ってもらえなかったサイ
知っていることが多すぎて、重い頭を動かせなくなってしまった、旅に出たいアリと、いつもほがらか
で、どんなどうぶつとも仲のいい、リスの友情。
51の短編からなるどうぶつたちのお話。



〈叶った夢・叶わない夢・叶っている夢〉


“「ぜったいひっくり返らないの?」
 アシの茂みに一本足で立っているサギを見て、リスがたずねた。
 「でも、ぼくには無理なんだ」
 でもリスは信じようとしなかった。
 「その一本足で立ってるほうの足を上げれば、ぜったいひっくり返るよ」
 「これは不動の足なんだ」サギは眉をひそめて言った。「頼むから信じてくれよ」
 「ものすごくとってもひっくり返ってみたい」サギの目から頬をつたって、一筋の涙がこぼれた”


 一度でいいから、ひっくりかえる。そんなサギの〈願い〉は、

 原題『ほんとんどみんなひっくり返れたーBijna iedereen kon omvallen』のタイトルを象徴する一話。

 冒頭に持ってこられたのに納得できます。

 傍から見ればいとも簡単に見えるその〈一歩〉は、本人にとって苦しく、恐ろしいもの。

 こどもが初めて、補助輪を外して、自転車を漕ぎだせるようになるまで。

 体育の授業で転倒に震えながら、逆上がりを練習するこどもたち。

 そのときは、親や、先生がついていたけれど、おとなになった私たちはどうすれば〈一歩〉を踏み出せるのだろう。

 “イカは上に向かって大声で「みんな、どこにいるの?」と、さけびたくなった。でも思いとどまって、さけぶのをやめた。
 ぼくはいつだって思いとどまるんだ。いっつもだ。
 そしてイカはもし自分が一度でも思いとどまるのをやめて、ほんとうにさけんだとしたらどうなるだろう、と考えた。そしてみんなが「ここだよ!ぼくたちここにいるんだよ」と答えて、下に降りてきたとしたら……。
 海の底に沈むおけのなかで、イカはどんよりと落ち込んで、さいごには眠りに落ちた。”


 ほら穴だと思い込んでいるイカのいる場所は、「おけ」の中。

 一人寂しい誕生日を迎えたイカは、まるで自己暗示のように“ぼくはいつだって思いとどまるんだ。いっつもだ。”と言い聞かせてる。

 「声をあげればいい」というのも、イカは自分でよくわかっている。

 けれど、あげることができない。この話も、他人事のようでないのが恐ろしいところ。

 “ハリネズミは一度でいいから、空中に浮かんでみたいと思っていた。太陽のように。でもそれほど高くないところーブナの木のてっぺんくらいの高さで十分だった。森の空き地の上空に浮かんでピタリと止まり、下を見る。それがやってみたかった。
 ハリネズミはアリから、長いあいだ思いつづけて辛抱づよく待てば、なんでも実現できる、と聞いたことがあった。
 そこでハリネズミはとても長いあいだ、宙に浮かぶことを考え、辛抱をかき集めて待った。
 ある日、ハリネズミは宙に浮かぶことができた。”

 サギとイカが願いを叶えられずにいるなか、ハリネズミは「宙に浮かぶ」という夢を叶えます。

 “ある朝、アリが旅に出た。アリのうしろ姿を見送っていたリスは、心臓がドキドキして大声で叫んでしまった。
 「アリ!帰ってきて!」
 「言っちゃだめだし、そうねがってもだめなんだ」
 リスは自身なげにアリを見つめていた。どうすれば願わないでいられるか、リスにはわからなかった。まだ一度も、強く願っていることを願わずにはいたことはなかった”


 サギは〈思い込み〉で、イカは〈自己暗示〉で、切望する願いを叶えられずにいる。

 ハリネズ一方ミは〈鮮明にイメージ〉して、願いを考え続けることで「宙に浮かぶ」夢を叶えます。

 リスはと言えば、どうしてもアリに旅に出てほしくないという願いを〈願わずにはいられない〉でいます。

 対照的な動物たちが、それぞれの〈願い〉を取り巻く4つのお話。

 感じたのは、世界中の誰もが〈いちばんの願い〉をもっていること。

 持っていないという人は、すでに〈願い〉がかなっているのであり、失いかけたり、失ってから初めて気づくのかもしれない。すでに叶っていた〈願い〉について。ということでした。

 また、唯一夢を叶えたハリネズミはがしたことと言えば〈失敗を想像せず待った〉こと。

 〈待つ〉とは、時間を超越することなんじゃないかと思う。

 〈とても長い間〉は一日かもしれないし、一分かもしれない、殆ど一生かもしれない。

 「自分の願いが叶うのは後どれくらい後なんだろう」と考えることをやめること。

 〈願い〉から余計な要素がどんどんどんどん剝がれ落ちて行って、最後には純粋な願いと、願う自分だけが残る。

 そうなったとき、〈願い〉が叶うということがどうぶつたちの〈願い〉から見えてきます。

〈個性という造語〉


“「ねえ、カメ、自分がたしかにカメだって確信がもてる?」
 「いや、確信はもてない」
 「ぼくは自分がコオロギだって、確信が持てるよ」
 「ぼくはチンチロリンってなく。だからぼくはコオロギだ」
 カメは考えた。ぼくはなにもしない。でも、それだけではカメであることに十分ではないはずだ。
 カエルがその会話を聞きつけて、言った。「オレはケロケロ鳴く、だからオレはカエルだ」
 コオロギとカエルは肩をたたき合ったあと、気の毒そうにカメの方を見た。
 じゃあもしかして、ぼくはカメじゃないんだろうか?だとしたらぼくはいったいだれなんだろう……こう考えてみたらどうだろう。ぼくはノロノロ歩く、だから僕はカメだ……こんなの何でもない、それに、ノロノロ歩く奴は、他にもいっぱいいる”


 「あなたを一言で表してください」
 「あなたのことを説明してください」
 「自己紹介をしてください」

 汗をかき、動悸までしてきそうなこのやり取り。
 自分を自分だと証明しなければならないこのやり取りも、私たちにはお馴染みのもの。

 カメは鳴き声を持っていない。

 甲羅を持っているとか、泳げる、とか考えればいくらでもありそうなものだけど、〈鳴き声〉という縛りのなかで〈比較〉すると、途端に没個性的なキャラクターになってしまう。

 しかも、それを自分でもそうだと思い込んでしまう。

 そもそも個性ってなんだ?そう考えさせられるカメの〈悩み〉です。

 そもそも〈個性〉って、求められて発揮するものでも、頑張って会得して利用するものでもない。

 誰に説明するわけでもない、自然体な自分のことでは?

 LGBTという名称が、社会通念に浸透したのを見ても、〈名前〉がついていない関係性や個人の嗜好への排除意識や、組織、団体、社会、家族での異常視が原因のように思えてならない。

 つまりLGBTという名称は、LGBTと称される、称する人のための認識要素よりも、そうでない人たちが納得して、触れやすくするための言葉という意味合いが強いように思える。

 「個性」もこれと似た性質の言葉になって、本人のためのものでなく、他人が当人を比較、判断するためのラベルのようになっている現実を思った。

 カメの悩みは真っ当なものだと思う。

 むしろ、おかしいのは「自分がたしかにカメだって確信がもてる?」という質問の方。

 なのに、現実にはこの質問で、人は評価されている。

 逆のケースもある。

“「ねえゾウ、ぼくの真うしろを歩いてみたらどうかな?」リスが言った。「そしたら、もうどこにもぶっつからないよ」
 「そうだね」ゾウは言って、リスのうしろを歩いてみることにした。
 ゾウは暗い気持ちになっていった。どこにもぶつからなくても、ぼくはぼくだろうか?どういのがいちばん自分らしいか、ゾウにはいつもはっきりわからなかった。
 ~結局、がまんできなくなり、ゾウはとつぜん右折した。ちょうどそこにナラの木が立っていたが、ゾウは気づかず、頭から幹に激突した。
 ~額にできたこぶは、いままででいちばん大きく、ゾウは大騒ぎして痛がった。でも、なんだか満足げでもあった。”


 そう。自分にとっての〈個性〉は、誰かに強制されたり、抑えつけられてもあふれ出てしまうもの。

 日記を丁寧につけるのが好きな人、書くのが絶望的に嫌いな人

 砂糖や醬油などの調味料はしっかりと計量して入れたい人

 噓が着けない人、噓ばかりついている人

 せっかちでよくものを落としたり、慌ててちょっとしたミスをする人

 完璧主義でものごとが予定通りに進んでいないと途端に不機嫌になってしまう人

 仕事の役に立つ・役に立たない
 市場価値がある・市場価値がない
 将来のためになる・将来のためにならない

 こういった打算的な理由のまったくつかない。

 どちらかといえば、客観的に他人に説明するのが難しいのが〈個性〉なのではと考えさせられるのです。

〈想像力のすべて〉


“冬の或る日のこと。リスはもう長いあいだ、だれにも会っていなかった。窓辺にすわって、ブナの枝のあいだを落ちてゆく雪を見ていた。
 リスはじぶんのために紅茶を一杯淹れた。
 ~リスは紅茶と少し話がしてみたくなった。なにとでも話ができるはずだとアリは言っていた。空とだって話せるらしい
 「こんにちは、紅茶さん」
 「こんにちは、リス」
 リスはあやうく椅子から転げ落ちそうになって、なんとか踏みとどまった。
 ~いろんなものの匂いについて。輪をかいてのぼってゆく湯気について。冬について。紅茶はもの知りだった。最後に、紅茶はリスに自分を飲みほすよう言った。
 「さようなら、紅茶さん」
 そうして紅茶を飲みほした。
 また静けさがおとずれた。「でもね、リス」紅茶はさいごに言い残していた。「必要なときには、また戻ってくるよ”


 なにとでも話ができる。

 大真面目に、そんなことができるのかどうか考えてみた。

 “できる”そう思わせてくれる一文だった。

 紅茶がリスにも話した内容は、匂い、湯気、冬。
 そのすべてと、紅茶はよく馴染んでいて、そのどれとも、どこかで関わっている。

 大げさだと思うかもしれないけれど、

 そんな風に、モノとヒトと関わたらどんなに素敵だろうなと思う。

 そこは、孤独とは間反対に位置する場所だとも思う。

〈感想文〉


 「もう一度、悩んでみませんか?」

 そんな、メッセージがピッタリだと思えるほど、社会生活を送っていく中で、日々かわし、いなし、さけ、見なかった、聞かなかったことにして素通りしていた、たくさんの物語に出会る一冊です。

 原題『ほんとんどみんなひっくり返れたーBijna iedereen kon omvallen』のタイトルが正に、物語の性質を決定づけているといった印象を受けました。

 今回触れなかったお話に、〈知っている〉ことが多すぎるアリは、頭が重くて動けなくなってしまうという話があり、対照的にはゾウは空を飛べてしまうというお話があります。

 ゾウが飛べるのは、常識や良識によう制約を受けていないからと想像できるのですが、アリの〈頭の重くい理由〉は、大親友である、リスのことを思い過ぎてという描写があり、この物語のメインとなる、リスとアリの友情がありありと描かれる。

 〈どうしても旅に出なくちゃならない〉アリは、自身の夢がかすむほどに、巨大な存在である大好きな〈リス〉のことで胸を痛め、もう一歩も動けないほどに頭はそのことでいっぱい。

 そんなアリが、まるで年寄りの方の、病気自慢でもするように、どうぶつたちが〈じぶんの痛み〉について語り合ってるところでこんなセリフを言い放ちます。

 “「痛みなんてばかげてるよ」「激痛」「激痛ならときどきある。みんながそれを〈痛み〉と呼ぶんだったら、べつにそれでもいいよ”

 誰かを大切に思う気持ちには、かならず激痛を伴う。

 それが本書の真髄となるメッセージだと、勝手に受け止めております。

 随所に散りばめられた暗喩は、おとなであれば、あるほど難しい内容で、こども、もしくは、こどものように柔らかく、どこにも力を入れずに世界を眺めてる人のお力も必要かもしれません。

 読む人の読み方では、180度、別な物語に姿を変える。

 そんな、まるで物語自体が生きているかのような作品でした。

 冒頭の引用。どのどうぶつのものか。。

 わかった方は是非、コメントお待ちしてますね。

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