「未来」を考えるよりも「将来」を考えよう
人は、新たな小節を迎えるとその五線譜の先に記された符号を読みたくなる生き物なのかもしれない。
そして、私も尚、この瞬間々々に、如何にそこに記された音符を奏でるかを試されているのだろうか。
予め楽譜が定められているのならば、私達はただそれをなぞっていくだけで、後は如何に音を鳴らすかということだけを意識していれば良い。
だが、実際には楽譜は我々に隠されているか、或いは、自分自身で書き進めていかねばならんもののようだ。
私達は、これから行く先のことを見ることは出来ないのだ。
しかし、私達には「未来」や「将来」という言葉が与えられており、行く先を予測することが許されている。
これは、ある意味人間に特権的な力能だろう。
そして、「未来」と「将来」を峻別出来る日本人はさらに特権的だと言えよう。
私は語学に疎いので断定的には言えないが、「未来」も「将来」も英語ではともに「future」と表され、その概念的区別はなく、また、恐らく、諸外国語においても、「未来」と「将来」を使い分ける言語は多くないのではなかろうか?
では、「未来」と「将来」とは、如何に使い分けられているだろうか。
未来:未だ来ず
まだ起こっていないこと
将来:将に来んとす
これから将に起ころうとしていること
このように、「未来」は時間軸において「現在」より先にある時間を漠然と指し示すのに対し、
「将来」は、より限定的に、「現在」の状況等を鑑みて、演繹的に示される未来を表している。
また、「将来の夢」に表れるように、「将来」は自分の進むべき未来、現在の有り様次第で実現される未来、理想というような概念を指示する。
ここにも、「現在」の視点から語られる未来、或いは、未来の視点から示される「現在」という視座が現れている。
つまり、「将来」という概念は、
「現在を考えた時に未来はどうなっているか?」
「未来を考えた時に現在をどうするべきか?」
という2つの観点を私達に与えてくれるのである。
「未来」と聞くと、「なんとなく、きっと今よりも便利な世の中が実現されていて、幸せな世界が広がっている」ような言葉の印象を受ける。
しかし、こうした理想の社会、(個人的に言えば)理想の生活を実現する為に真に必要なのは、
「今やっていることが如何なる未来をつくるか?」
「理想の未来をつくる為に今何をするべきか?」
を考えることであり、
「未来」を考えることではなく、
「将来」を考えることなのである。
我々はこれから奏でられる小節をただ漠然と眺めるのではなく、そこへ向けて今のこの小節を創意して奏でなければならない。
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