本当であり同時に嘘であるという本当/『ナミビアの砂漠』【映画レビュー】
映画『ナミビアの砂漠』を観た。
これほどまでに登場人物に共感した、感情移入した映画ははじめてだった。
言葉では容易に表しえないある種の感覚、感情、あるいは、感情にも至っていない”私”の中で現象しているなにか、みたいなものを映像を通して訴えられ、映画では味わったことのなかった、白昼夢を遊泳しているときのそれにも似た感覚を覚えた。
そうした映画という形式でいままで表現されてこなかった、曖昧でどうしようもない感覚的ななにかを、河合優実さんらキャストさんの神妙な演技と、空想力に富んだセンシティブな脚本と、撮影技法や音響などの技術、そしてそれらをすべてまとめあげた監督さんの人間力によって、表現することに成功した素晴らしい1本だった。
以下ネタバレを含むので、未視聴の方はご注意ください。
あらすじ
とはいえ、この映画、人にどう紹介していいかわからない。
鑑賞後、レビューを色々とみてみたけれど、
レビュアーによって全然見え方が違っていた。
そもそも「まったくわからなかった。」という感想も多かった。
公式のあらすじには
とある。
おそらく、だれが読んでも理解しやすいように、推敲されて書いているんだろうけど、
このあらすじ、正しくはあるんだけど、あえてわざと的を言い得ないように書いてあるような気がしてしまう。
というのも、主人公のカナの理解されなさが、この映画で描きたかったものの1つだと感じるからだ。
僕とカナのキョリ
はじめに書いたように、僕はこのカナに恐ろしいくらい共感を覚えた。
「恐ろしい」という表現を用いたのは、カナの行動、言動が取っ組み合いの暴力以外ほとんど全部、僕もやったことがある、よくやるものだったので、
「これ僕をモデルにしてる?どっかで観察されてた?」と、
荒唐無稽な被害妄想をしてしまったほどだったからだ。
思い出せる範囲でざっと共通点をあげてみても
・歩き方がよく変わる
・周りの色んな音に気を取られて、話し相手の話を聞いてない
・ふとしたタイミングで「あ~」とか「う~」とか言ってる
・急に走り出す
・お酒飲んだ後、人と一緒の時は元気なのに、一人になった瞬間気持ち悪くなって吐く
・あてもなく適当に歩く。行き止まりにあたって来た道もどる
・落ちているものを無意識に拾って、いじってすぐ捨てる
・よく鼻血出る
・寝ながら服脱いでる
・「わかる」って言われると、嬉しくないふりして、本当は嬉しい
(以下は僕個人の解釈も含みますが)
・「どうしたの?」って聞かれるのわかっててわざと変な行動して、実際に「どうしたの?」って聞かれるけど、「わからない。」って答える
・自分のことを客観的に見えていて、自分が悪いことしてることとか、自分に言い訳してることとかもちゃんと実は見えている。
・客観的に自分を見てるがゆえに、自分がわからくなって急に虚無になったり、どうでもよくなったりする
・聞かれるまで基本話さない
・自分に近い人ほど突き放したくなってしまう
などなど、ほかにも色々共感を感じた場面はあったのだが、
ここまで自分とのキョリが近い映画の登場人物ははじめてで、
それゆえに、感情移入できて、しかし同時に、引き離したかった。
もちろん、カナと僕とは生きてきた場所も環境も違えば、そもそも性別から違う。
だから、自分が感じたものが製作者が意図的に感じさせようとしたものなのかはわからないが、
それでも、鑑賞中は、まるで自分を客観的に見せられているような感覚に陥れられた。
カナは、劇中、双極性障害や境界性パーソナリティー障害の可能性を示唆される。
僕は、これらの診断は受けていないが、精神疾患があるので、もしかしたら、そうした人たちの傾向などを色々落とし込んでカナの人物像ができているのかもしれない。
河合優実さん
日本の若い役者さんで、ここまで演技に気圧されたのは、間違いなくはじめてだ。
正直、僕は映画を観ていて、演技に失望して観る気が失せることが多々ある。
特に日本映画にそれは多くて、(それはおそらく僕が日本人だからだろうが)「この俳優さん、あんまり映画観てこなかったんだろうなぁ」とか「あんまり良い俳優さんの演技を研究したり学んだりしてないんだろうなぁ」「だから引き出しすくないなぁ」とか感じてしまうことが少なからずある。
それに対して、河合優実さんの演技をみて、「この人どんな作品を観てきたんだろう?」「どんな俳優さんに影響されたんだろう?」「ふだん、どんなふうに世界を眺めて生きているんだろう?」云々、すごく興味がそそられた。
視聴後、インタビュー記事などを読んでみたけど、いろんな作品、俳優、日常生活から多くのエッセンスを吸収しているのが感じられて、それでもまだ腹の底が見えない感じがして、なんかよかった。
『ナミビアの砂漠』は相当機微なバランス感覚で成立していると思う。
特にカナは場面場面で人格が移ろいでいくような人物である。
だから、ほんの一部どこかの発声や表情、体の動きを間違えるだけで、その人物像が崩れかねない、ゆえにかなり神妙な演技が要されたんじゃないかと見えた。
綱渡りどころか、糸渡りくらいの完璧なバランス感だった。
その時々で、立ち振る舞いや言動がころころ変わっていくかなりアンバランスな質の中に、糸のようにピンと張り詰めた、芯を通る変わらない天稟みたいなカナの正義があって、その正義だけは絶対にぶれない彼女を表現し続けるのには、そうとう鋭敏なバランス感覚を求められたのではないかと想像するが、それでも飄々と脱力しているように映るカナ、河合さんの底知れなさを感じる。
カナが自分の考えてること、感じていることをアクティブに話すようなシーンはほとんど見られない。ブチ切れるシーンを除いて。
むしろ、彼氏以外の他者に対しては、リアクターであることがほとんどで、空気を読んだ社会的に適した振る舞いを選んでいる。
自分を言葉にして表にあらわさないカナだが、おそらく、人一倍いろんな情報を外から感知していて、人一倍いろんな思考をめぐらせていると思う。
そうした内面的なものを、発言としてではなく、声の発し方、声調、目線、表情、体の動かし方、、、、一挙手一投足に表している。
気持ちを身体を通して視聴者に伝える。
言葉という媒体は、話し手と受け手との間にある程度の共通理解がある(Aさんにとっての「りんご」の意味とBさんにとっての「りんご」の意味は近似している)のに対し、身体はその人個人個人のものだから、身体という媒体は、人それぞれ固有の意味を持つことが多いと思う(「Aさんの手」は、Aさんにとっては触れたものから様々な触覚的な主観の情報を享受するもの、アクティブに自分の意志で動かせるものであるのに対し、Bさんにとっては他社の客体的な身体にすぎず、その手がなにを感じてるのかわからない)。
だから、身体、声や顔、体を通してなにかを伝えるということはかなり難しい。
そんな困難な身体的コミュニケーションで、複雑にレイヤーの重なりあった心情を表すだけでなく、カナの人格、過去までもを訴える演技をなす河合優実さん、もうすごいとしかいいようがない。
自分が生の映像の中にいる!
この映画を観ている最中、僕は異様な感情に包まれた。
この感情を名状できないのが惜しいけれども、
おそらく辞書を探しても出てこない、感情の一つであると思われる”それ”を味わうことは、
映画、芸術を鑑賞することの価値の一つである。
『ナミビアの砂漠』はある特殊な主観の世界を表現することにかなりこだわっていると思う。
山中瑶子監督(だけかはわからないが)の見えるもの、受け取るもの、世界を徹底して映像の中に映してしるのではないかと思う。
だから、誰かにとってはどこまでもリアルで正しくて、でも、違う誰かにはさらさらリアリティーがなくどこまでもフィクションである。
僕のように自分を見ているかのごとく共感を覚える人もいれば、まったくわからなかったという感想を持つ人もいることが、それを表している。
映画の前半、カナが自分のよくとる行動をとり、自分と似た世界の享受の仕方をしているため、僕はカナに感情移入、自分を投影せずにはいられなかった。
二次元の映像の中に、自分とは異なる姿形をした自分を見るというのは、それだけで異様なものである。
しかしながら、カナの言動や考えが自分のことのようにわかるような気がして、「カナ=僕」という方程式が徐々に成り立っていくのに抗いようもなかった。
だから、この映画のストーリーは、虚構でありながら、どこまでも現実的で、正しさをもって僕の目に立ち現れた。
もちろん、僕がカナの中から吸出した思考、感情は、あくまで僕の感想にすぎなくて、本当にカナが本当に考えてたこと、感じてたことなのかはわからない。
というか、むしろ異なるところが大半だろう。
それでも、視覚と聴覚情報しか伴わない映像という表現は、僕の五感すべてに響いて、僕の思考に響いて、僕の全体に響いて、カナと自分とが重奏を奏でるように感じた。
人は誰しも自分を客観視する視点を持っているのではないかと思う。
けど、自分は主体なのだから、本当の意味で自分を客観視することなんかできない。
自分に都合のよいフィルターを通さずに、自分を客体視することなんかできない。
けど、この映画はそれを可能にしてきたように感じた。
もちろん不完全な形ではあるけれども。
自分が生放送の映像の中にいる!その異様さたるや。。。
異様ではある。
しかし、不思議と嫌な感じもしない。
共感に付随する気持ちよさもない。
その異様さは、不思議と「1+1=2です」っていうのと同値の真実味と当然さくらいのものしかこちらに投げかけてこない。
そして、その事実がまた異様なのである。
異様なのにどこまでも真実味を帯びている。
これがこの映画に感じた新感覚なのかもしれない。
この映画をすでにご覧になった方はお気づきなのではないでしょうか。
これを描いたシーンが、実際にこの映画内にあるのである。
一番印象的なシーンといってもいいのかもしれない。
カナとハヤシが殴り合いの大喧嘩、その映像が徐々にズームアウトして、それがスマホに映されている映像(生放送の動画?)だとわかり、そのスマホをランニングマシンを走るカナが眺めている。
しかも、その空間はピンクが壁を単色にのっぺりと覆い、その中央にランニングマシンとそれを取り囲むように置かれた無数のライトしかない。
異様である。。。
カナはひたすら淡々としていて、無の表情を浮かべている。
このシーンは唯一、カナの身体が何も語らないシーンである。
(無を表現しているとも換言できるかもしれない。)
しかし、このランニングマシンを走るカナは、映像の中でハヤシに殴りかかるカナの、1つメタな世界にいる。
映画の中の世界よりも、それを観覧している私たちのいる1つメタの世界のほうが、現実で正しいのと同じように、
ランニングマシンの世界は、喧嘩の世界よりもより現実的で正しい世界のように見える。
このシーン、映画のかなり終盤のシーンなのだが、
ここまでのシーンは、一部の人にとってなにを意味しているのか伝わりにくいように意図的に描かれていた。
ここまでのシーンは彼らにとって、映像が意味するものは少なかった。
しかし、このランニングマシンのシーンだけは、それまでのシーンすべての意味を、全視聴者に伝えようと意図した場面なのではないかと思う。
現実や真実のニヒリスティックな異様さに満ちた日常を、生活を。カナの世界を。
このシーン、僕には安堵として現れた。
私という本当であり同時に嘘である本当にあるもの
カナを不安に陥れるもの、惑わせるもの、彼女の狂気を呼び起こすもの、それは、なにか彼女に起きたある具体的な出来事とかに起因するものではなくて、彼女の未来・過去・人生そのもの、彼女自身の存在そのもの、あるいは、世界それ自体などといった抽象的で推し量れないようなものではないかと想像する。
カナは、浮気を隠すなど人を欺きはすれど、映画中一度も言葉にして嘘は吐いてていない(はず)。
自分のことについて聞かれたときは、曖昧でとっかかりのない返答をしているように見え、自分の気持ち、なにを考えているのか詰問されたときには、はぐらかしてごまかすような素振りを取る。
おそらく答えたくなくてそのような態度をとっている部分もあるだろうが、実際に自分が何を感じていて、何を考えていて、自分がどうしたいのか、何が好きなのか、本当に明確な答えがないから、あるいは、回答がいくつも用意できてそのうちどれが本当に自分に正直な回答なのかわからなくて、そのようにしているのではないかと僕には映った。
それは、考えていないからわからないのではなく、考えすぎてわからなくなっているのではないかと思う。
カナは物事を深く考えるよりも先に、衝動的に体が動くタイプの人物として描かれる。
しかし、本当になんの考えもなしに行動しているのではなくて、後先のことを考えずに行動している自分をなんとなく客観的に俯瞰し理解していて、それとなく良くないかもと自省しつつ、それでも今現在する衝動に正直に、行動に突き抜けていく潔さみたいなものがある。
そして、それはカナの生まれ持った性格に起因するだけでなくて、過去に自分に付きまとってきた色々な悩みを考えぬいて、いくら考えても自分が納得する答えが得られなかったからで、懊悩にさいなまれるフェーズを抜けて、未来の不確定なことについて考えるだけ無駄、将来なんてどうにでもなる、みたいなさっぱりとした諦観をカナの中に、そして、僕自身の中に感じた。
しかしながら、そうした衝動的な行動の数々が、カナに一生付きまとうであろうなにか砂漠のような荒涼とした大きな不安感から逃れるための、いわば、気晴らしにすぎないのだということを、おそらくカナは自覚している。
自分が自分という存在に向き合うことから逃げていることを、客観視できてしまうだけの賢さがカナに備わってしまっているために、忘我できるような悦楽に衝動的に吸い寄せられ、そして、楽しいことが済むと、また、悦楽で一時的に気を晴らしていただけだと客観的に自認し、そしてまた、衝動→自省の繰り返し。
そうした悲痛な自分という現実の存在から目を背けるための気晴らしと自省を繰り返すなかで、自分という存在がさらにわからなくなって、自分の都合の良いように自分を理解して、その自己理解が嘘なんじゃないかときになって、結局なにもかもわからなくなって、虚無になる。
そんなカナの内的な動きは、砂漠を一人で歩きさまよっているときのそれにたとえられるようなものかもしれない。
自分という存在はどこまでも明確な輪郭がなく、曖昧で、実態のないもののように思える。自分をいくら省みても本当の私はわからないから、自分の解釈で私を形成する。その私は真実なのか虚構なのかすら曖昧で、というか、真実であり同時に虚構でもある。それでも私が存在している、世界があって、その中に私がいるということは、どうやら本当らしくて、嘘や虚構の私が実際に今存在していて、これからも存在していくということは、逃れようのない真実である。自己というなにかわからないのに常に自分にかかわってくる得体の知れないなにか、間違いなく本当にあるのに常に嘘で欺いてくるなにか、そんなものが本当にあって、生きている間自分につきまとってくるということは、途方もなく恐ろしい。
このように、本当と嘘の併存する私という存在はつねに生きること、それ自体に重くのしかかってきて、逃れられない苦しみをおしつけてくる恐ろしさをこの映画は僕に訴えてきた。
というか、呼び起こしてきた。
だけども、そうした容易に表しえない感情を、映画というもので、表現できる人がいる、それを感じられる人がいるということに、ひどく救われたような感動を味わった。
映画の後半、カナが暴力的になっていって破滅していくにつれて、僕はカナに自分を重ねてしまった以上、かなりしんどくなった。
元カノに「Violent」だと言われたことを思い出して、よけいに喰らった。
でも、苦しいのにこの映画ずっと続けばいいのに、ずっと観ていたいなと思った。
それは、山中瑶子監督、カナ=河合優実さんが見ている世界をもっと見ていたいと思ったから、
そして、こうした理解されづらい曖昧な感情やメンタルを機微に描ける、表現できる人が世界に存在しているということに救いを感じたからに違いない。
それくらい、この映画の世界観は魅力的だった。
こんなところがこの映画鑑賞中に感じた所感です。
左右反転
ストーリーや演技以外にも、映像表現も挑戦的で良かったから、特に僕が気になったものを1つだけ付言しておきたい。
それは、左右反転である。
先述したランニングマシンのシーンの前後で、家の中のものの配置が左右反転しているのである。
動画の中の世界は、視る人には左右反転して見える。
つまり、ランニングマシンに乗りながらカナが見ていた”カナ”は本当に動画の中の存在で、ランニングマシンを走っているカナとは、別の世界のカナであるか(動画が生放送だった場合)=客観視、あるいは、別の時間のカナである(動画が録画であった場合)=記憶、であることが暗に示されている。
ということは、少なくともハヤシと同棲する家に引っ越してから、もしかしたら映画のはじめからそのシーンまでのすべてが、メタのカナとは別の世界/時間の出来事だったことがほのめかされるのである。
この表現、はじめてみた。
これまでのすべての出来事がカナの意識の中の出来事だった、とか、すべてカナの想像・妄想だった、とか、あるいは、すべてが第三者による仮構だった
とか、いろんな解釈ができる。
映像ならではの表現で面白い。
〆
ナミビアの砂漠のオアシスは人工的に作られたものらしい。
現実も自己も、砂漠のように茫洋で無味乾燥でも、人工的だろうが偽物であろうが虚構だろうが、そこになにかつくってしまえば、それにすがって生きられるかもしれない。
カナみたいな人と1回破滅してみたい。