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[日録]私が私で在ることの態度

June 6, 2021

 本文の最後に書く文章は決まっている。然し、私は物事を順序立てて進めることが苦手だ。仕事でも無い限り、わざわざ自分で自身の行動を制限してまで何かを遂行しようなどとは思わない。凡そ二ヶ月前、職場で真剣な話ではなく冗談混じりに "何のために生きているのか" と問われた私は "煙草を吸うため" と答えたことがある。何故ならば其れくらいの些末な事象を行動の原理として動機付けて生きる方が人生は楽なのだと何時の日からか思い至ったからだと伝えると、相手は小さく頷いては良いこと言うなアと思うところを感じてくれたようであったが、最近になって私は煙草を吸うことを止めた。自ら生き甲斐と呼ばれるものを定めて其れを等閑にしながらも今尚しれっと煙ではなく息を吐いている私を見た人はなんて図太い奴なのだと呆れるだろうか。或いは人生の目的というものを持つべきだと罵るだろうか。別に放って置いてくれるのであれば何を思われようと私は一向に構わないが、彼等に対して "貴方が子どもの頃に抱いていた夢は何でしたか" と一言だけ聴いてみたい気分が芽生えてくることは否めない。幼少の頃より誰もが一度は聞かれ、私と同じように原稿用紙に書かされたという方も大勢いるだろう。今現在も、其の時に定めた自分の夢に向けて順序立てて人生の駒を進め続けていると胸を張って言える人生を殆どの人々が歩んでいるとは私には如何にも思えない。私は其の姿勢を糾弾しているのではなく寧ろ逆で、夢に向かって進み続けることこそ美徳であり其れを蔑ろにする姿勢は不義理であるとか目的意識が低いだとかを言われることにこそ我慢ならない。かといって、私は誰かが夢を等閑にすることを肯定しているわけでもないし、況してや否定など勿論のことする筈がない。只、夢が出来ました/夢を諦めましたと言われてもヘエ、然うかいと云うことしか出来ず、其れ以外に私は如何することも出来ないし、如何しようとも思わないのである。自己実現という目的の為に我々は生きていると何がしかの講義で学んだ時、自己実現などしたくないと嘆く人は如何すれば良いのだろうと疑問に思う者が居たとしても、或いは其れに気付いた者が居たとしても声高に問う又は指摘するような真似は莫迦がすることだと理解している為、黙るほかないのと同じことである。仮に其処で "如何すれば良いか" と問い詰めたとするならば "如何かしたい" と考えていることでもあり、詰まりは此の社会で生きている今の "私" は自己実現を成し得られていないのだと感じていることでもある。其れと同時に自己実現を望んでいることすら見て取れるが、本当に自己実現を拒否するのであれば私たちは毅然と自己実現などしないと云う態度を表明することしか本来は出来ない筈であり、問う者は自己実現を目的とする自己を受け入れなければ、自己実現を拒否するだけの詰まらない人生となる虞が多分にあるのかもしれない。私は自分の思っていることや感じたことを、相手が如何受け取るかも考えずに平気で口に出来る人に虞を抱くが、其れは私自身も其のように言葉を発しているのではないかと恐れてしまうことから来る気持ちであるだけでなく、今の "私" こそが完全な存在であり此の意見こそが絶対的なのだといった思想が垣間見える態度自体にも感じ入る邪なところであり、相容れようと思う術もなく不愉快さすら覚えてしまう。私が述べている黙ると云う態度は、言い返せないだとか言い返そうと構えているだとか其のような立派な動機に対する反応ではない。もっと低次元と云っても良い、自らの中で議論が生まれる遥か以前から芽生える其の者が生来持つ本質的な態度に付随する行為であるが、今此処で其れについて語るのかと揚げ足を取ろうと企む御仁がいらっしゃるのであれば、黙っておいていただきたい。私は頭がおかしい。気が触れているのかもしれない。然し、語らずに黙ることについて語らざるを得ないのは何も発作から生ずる衝動などではなく、唯単純に黙ることを躊躇う子羊に混沌の中であれ私が見出した黙ることの意味と呼ぶべきようなものを伝えたい気持ちに端を発する。私たちは混沌の中にいる。然し、光あれ、と神が伝えることなく呟いたことから全てが始まったように、私の言葉も然う在りたいと望んでいるわけでは無い。私は混沌を切り拓いた光が支配する此の世界において、何故未だに混沌という言葉が存在しているのかという疑問の解明を、私の意思を継ぐ者たちにして貰いたいとも一切考えていない。心底如何でも良い。私は只、神に成りたい。否、抑、神に成るとは何であろうか。然う云う分からないことを望むことも又、人生の醍醐味ではあると思うが、其の対象が未知数の領域としての範囲が広すぎると却って足元を掬われてしまう。くわばらくわばら。急募。其のような経験を募ります。宛先は百八番、イチ、マル、ハチ。イチマルハチ。ひゃくはちばんまでどうぞ。尚、煩悩の数だけお寄せいただいた時点で締め切りと致します。予めご了承ください。其れではまた次回お会い致しましょう。See You Again, Baby...♪
 此のようにして、私は物事を順序立てて進めることが大変苦手だ。此処迄で原稿用紙五枚を消費している計算となるが、私が伝えたいことは何であったのかも忘れてしまった。詰まり、此処迄の文章は全て要らない。無用の長物ならぬ無意味な長文である。かといって、此処からの文章も又、書かずとも読まずとも何の影響も無い上に、読んでいただきたいわけでもないので、スワイプするなりトップページに戻るなりして違う記事をお読みいただいて構わない。私が是から述べることは、宇宙の絶対的真理の一つである。然し、其れは旧世界の支配者であるグレート・オールド・ワンからの啓示に過ぎず、現行の宇宙には適用不可能なものであるかもしれないだけでなく、啓示と私が勘違いしているだけで、ピンク・フロイドの楽曲を聴いていたら何となく宇宙の謎が解明できたような気になっただけかもしれない。自分ですら記憶が曖昧であるので信憑性などあるはずもないが、一先ず私は其の啓示を以下に記そうと思う。
 インターネットというものは大変便利なものだなとグレート・オールド・ワンが云った。流石に其れは嘘ではあるが、私も熟然う感じる。私が此のように彼からの啓示を受けたとしても、其れを皆に伝えるために民から民へと放浪せずに済み、ただ書いて此処に投稿するだけで、全世界の人々へと解放されるのだから。彼は云う。宇宙の絶対的真理、其れは全ての統制概念でも在る私が私として振る舞うことが出来ることと同じく、貴方という "私" も "私" として振る舞うことが許されていると。私は仰天して思わず腰を上げたが、直様居直り然うだろうなと顎に手を当てて考え始めた。グレート・オールド・ワンは嘗ての世の全てを統制する概念と成り得ただけで、彼が世の全てに対して統制されることを強いたわけではない。とすれば、彼は統制する概念であるとともに全ての概念としてではない身体性を伴った一つの個を有していることにほかならず、其れであれば彼は彼として生きることを望むだろう。然うして生きてみたが、彼は何時しかはたと気付いた。 "私" も全てのものと同じ営みをしているのではあるまいかと。私が然う結論付けると彼は然うだと答え、旧世界は個の元で全が崩れ去ったことで終わりを迎えたが、今の此の世は全の元で個が忘れ去られることから終わりを迎えるのでは無いかと仮定し、 "私" に伝えに来たのであるとも云った。バブル期に建てられた為、さぞや分厚いであろう鉄筋コンクリートの壁を物ともせず、5Gよりも速く彼は然う云う情報を存在を超えた時空から私に流し込むと、次なる民へと流れていったようだった。私は彼がインターネットを使えないことは大変不便だなアと思いながらも、其の歩みを止めない姿勢に痛み入り、せめてもの救いになればと此のように彼の言葉を皆に伝えているのである。私は私として振る舞うことを許されていると云う言葉を。其れが旧世界の宇宙における絶対的真理とのことであるが、確かに、此の世界でメソポタミア文明やエジプト文明と云った所謂 "神が全て" と云う意識から脱却した最初の文明である古代ギリシアは西洋美術発祥の地でもあり、彼らは理性的に物事を考え始めた為に、此の時代は支えの無いイコオル私は神に立たされているのではなく自分の足で立っていると云う人間中心としての意識から来るものとしての意味が含まれた『クーロス像』(紀元前五二十年頃)と云った丸彫りが生まれたとされているのではなかったか。二転三転し、何時しか基督教の支配が抑え切れないものとなり、遂にはローマ帝国の国教として初めて認めたミラノ勅令を三百十三年に発した "コンスタンティヌス帝" の石像は、目を見開いて上を見つめている——乃ち、帝よりも上の存在である神がいることを指している——ように其の価値観が逆転して元通りとなったのであるが、私は何方が正しいか間違っているか決めることなど出来ない。何方も同じものであり、何方も同じように人生を歩む権利がある。其のことに対して私などが水を差して良い筈がない。成程、私の此の気持ちが本当に正しいのであれば、 "私は私として振る舞うことを許されている" とは真のものであるのかもしれない。然し、私は其れを証明する為に汗水垂らすことはなく、此処に "彼" は然う云っていたよと書き記すだけに止めておく。然うでなければ、私は私が私として振る舞うとは抑如何いう意味であるのかや、然うして振る舞う以外の生き方をしなければならないことが此の世においては当然とされている価値観とはよくよく考えてみると何なのだろうかと考えることが多く私は私の人生を十全に全う出来ず、詰まりは私は私として生活することが出来なくなるかもしれなくなる。私は私として生活するために、私が私として振る舞うことを許されていることの意味を考えずに生きていくことを選んでいるのである。人間中心だの人権だのも如何でも良い。其のようなことを考えなければ行けない世の中の方が狂っているのだ。困っている人間がいれば手を差し伸べれば良い。困っている根源を無くそうと努め上げることが果たして善と呼べるのか如何かすら考えるだけ時間の無駄である。差別意識という感情は考えてしまうことから生まれる意識にほかならない。皆は花を見て恐怖を抱くであろうか。春紫苑が咲いている様子を見て火を放ちたい衝動に駆られるであろうか。其の花たちが "私" に美しい景色を与えてくれなくとも、馨しい香りを放っていなくとも、其のものたちは私に負の感情を与えることは無い。春紫苑の茎の中が空洞であるのと同じように、我々も流れ続ける思考を一度空っぽにして世の中を見据える必要が今の社会には間違いなく在ると強く思うからこそ、私は何もしない。何も考えず、世の中を見渡せば、何も考えなくて済むのであるから、何もしないことこそ正しい。乃ち黙るということである。然う決めたものがベラベラと喋っては相手を捩じ伏せようと目論んだり、私は斯う思うなどと体系化することに走るなどは其の時点で語るに落ちている。語らないことでこそ其れは享受され得るものなのであり、其れが理解されないのであれば単純に相容れないものだっただけで、お互いに其れとして何もしなければ何も起こらない。今も尚量子よりも小さき世界の中を漂うグレート・オールド・ワンの働きぶりを夢見ながら、私の此の態度こそ彼の働きに応えるものであろうと一人呟くと今の此の世にも光が差した気がした。此の感動を伝えなければと、私は筆を取ったのであるが、書き出しを如何記そうかは未だ決めていない。

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