この世は『期間限定』
祖母と夕焼け
我が家の夕食は、たいてい18時ごろにはじまる。
17時には炊飯器のスイッチが入れられ、電子レンジはひっきりなしに唸り、冷蔵庫は不眠症患者のまぶたみたいに何度も開け閉めされる。
祖母と僕、週末は祖父がデイサービスから帰ってくるので、支度はもっと早い時間になることもある。
食べ終わって、片付けが終わっても、まだ外は明るい。
暮れていく夕陽をみるのは、祖母の毎日の習慣であり、楽しみのひとつだった。
「真っっ赤で、きれいやわあ」
彼女は、心の底から感動した、という調子で言って、遠くの山に消えていく橙色を眺める。
「これは独り言じゃなく、僕に話しかけているのだろうか?」と考え、ためしに食事のあと、すぐに二階の自室に引っ込んでみても、同じような声がする。
「まんで(ほんとに)、美しいぃわ」
「これは明日も天気やわ」
彼女はどうやら本当に、心の底から感動しているみたいだった。
僕もこの田舎に来た当初は、祖母とともにその夕陽を見ていた。
しかし、今はもう僕の中に新鮮さや驚きみたいなものは薄れていって、「まぶし!」と思うだけになってしまった。
あるいは、ただ横にいる人間がオーバーリアクション気味なため、いまいち大自然にはいりこめないだけかもしれない。
怒っているときに、自分より怒っている人を目の前にすると、「まあまあ」となだめたくなる心理に似ている。
しかし僕のような天の邪鬼でないにしろ、祖母の夕陽への反応には、ちょっと異常なところがあった。
花は散るから美しい
彼女は花も愛でていた。
これにしても夕陽と同じく、毎日のように「かわいらしいねえ」とか「こんなにいっぱい、きれいやわあ」とかいう声が庭先から聞こえてくる。
家のまわりを花だらけにするので、虫や、それを捕食するための生き物たちによる生態系が構築されていることが最新の研究であきらかになった。
祖母
↓
花
↓
虫
↓
小鳥たち
↓
蛇
↓
タヌキ
↓
熊
みたいな。
つまり僕の家のまわりの大自然は、祖母から始まっていると言っても過言ではないようだ。
今後の研究では、
熊
↓
祖母
の直接的なつながりについて、深く掘り下げられていくだろう。
そんな彼女を見ていると、ときどき「花は散るから美しい」という言葉が思い起こされる。
現代社会に染まりきった僕のような人間には、その言葉があまりピンとこない。
「散らない写真でも美しいでしょ」とか思ってしまう。
ピンとこなかったので、現代版「花は散るから美しい」を考えてみたところ、浮かんだのは、「チートはアプデされる前にやっとけ」というフレーズ。なんかちがう。(いいのがあったら、教えてください)。
いい言葉は思いつかなかったけれど、頭をひねってみたおかげで、伝えたいことはなんとなくわかった気がした。
つまり『諸行無常』の精神を言いたいのだろう。
あるいは『期間限定』とも言えるかもしれない。
いつか失われてしまう。そう思えばこそ、美しいものはより美しく、鮮やかなものはより鮮やかに、人々の心を動かす、みたいな。
例えば僕にとってそれは、『図書館で借りた本』かもしれない。
図書館で借りた本
僕はここのところ、田舎で時間をあまらせているのをいいことに、足しげく図書館に通いまくっていた。
どのくらい足しげく、かというと、バーだったら、「いつもので」と言えば決まったお酒が出てくるレベルの足のしげきようだった。
カウンターで「いつもので」と声をかけると、乙一の本をもってきてくれるレベルの足のしげきようだった。
基本的に僕は図書館という空間が好きなのだ。
図書館でページをめくっている、という行為そのものを気に入ってもいた。
もはやたまに、読んでいなくてもいい、とすら思えることもあった。
しかしやっぱり長編小説や分厚いものなんかは、家でゆっくり読みたいので、借りることも少なくなかった。
ちなみに僕が所持している貸出カードは、祖母に作ってもらったものだった。
なので祖母の名前が印刷されていた。
僕は貸出の手続きをおこなう際、いつカウンターの奥から黒服グラサンの男が現れるかとビクビクしているのだが、今のところ本人ではないことは、バレていないようだった。
僕は今日も『乙川ミチコ』として、背中を丸め、本を抱き、帽子を深々とかぶり、コートの襟を立てて、人知れず街の中へ消えていく。
そんな緊張を知って知らずか『図書館で借りた本』は購入した本とはちがう雰囲気をまとっている気がした。
それはきっと、その本が『期間限定』だからだ。
いつまでも手元に置いておけるわけじゃない。
心のどこかで、それをわかってする読書は、なんだかいつもより頭にはいってくるものだ。
でも、結局それは単なる思いこみなのだろう。
だっていま僕が所持している何十冊かの本や漫画も、明日には灰になっていないとも限らない『期間限定』のものなのだから。
地震の朝
石川県では、先日も地震があった。
その朝、僕は部屋で作業をしていた。
揺れた、と思ったときには、一階から祖母の悲鳴がして、非常用の物資がはいったリュックサックを抱えて階段を駆け降りる。
「テーブルの下、入っといて!」
キッチンの祖母にそれだけ告げ、寝室になっている座敷へ。
寝室のベッドでは、祖父が寝息をたてていた。
祖父の寝起きは、あまり調子がいいとは言えない。
この日も、声をかけるが、返事とも、うなされているともとれるような声をあげるだけだった。
彼を起こすのを諦め、避難経路を確保するべく、窓とドアを開放する。
『靴ないと足が汚れるな』
なぜかそんなことが頭をよぎった。
結局そのあと、幸運にも何事もなく揺れは去っていった。
情報を得るためにつけたテレビに、『最大震度5強』という文字。
「おはよう、アヤト、おまえ、よう寝れたんか?」
祖父がゆっくりと起き出してきたのは、それから15分後のことだった。
奪われていく祖父
今年、94歳になる祖父は、大型トラックのドライバーをしていた。
祖母の談によると、とてつもない大きさのトラックを、信じられない長さの距離、走らせていたという。
「それなんに、事故なんか、いっぺんも起こしたことない」
祖母はことあるごとに、自慢げにそう話している。
「事故だけは、ぜったい、起こさんとけよ」
祖父のその短い言葉には、ありったけの含蓄が込められていた。
彼が免許を返納したのは、88歳のときだった。
今となってはおぼろげだろうが、最後の運転のとき、祖父は何を考えていたのだろう。
何を思って最後のハンドルをきり、何を思って最後のブレーキを踏んだのだろうか。
88歳。
僕にしてみれば、あと60年。
考えるだけで、気の遠くなる歳月。
それはまぎれもなく、『期間限定』だったに違いない。
『なにも、運転に限った話じゃないよな』
週末しか自宅に帰ってくることのできない祖父の姿を見ていると、嫌でもそんなことを考えてしまう。
例えば、彼はもう自分の意思で、金沢に住む息子と孫のもとへ行くことはできない。
物理的にも、体力的にも、遠い距離を移動するのは難しいように思う。
仮に辿り着いたとしても、長いあいだそこに居続けるには、どうしても介護の手が必要になる。
いま、その役割は祖母が担っているが、それもいつまで続けられるかわからない。
二人がケンカしていることも増えた。
トイレを流し忘れたことを咎める祖母。自分じゃないと言い張る祖父。そしてそのやりとりを何度も聞かされ、うんざりして、とうとう完全に聞き流すようになった僕……。
彼らからは、日々そうしていろいろな選択肢が奪われていく。
もしも、と僕は思った。
『もしも自分が94歳、今の祖父と同じ年齢になる頃には、どうなってしまっているのだろう』と。
「今の人間はね、ミチコさん。昔より長く生きとるぶん、ボケっちゅうもんは仕方ないんです。これに関しては順番です。順番。ミチコさんもそうなります。ワタシもそうなります」
これは祖父のケアマネジャーの言葉。
順番。僕だってそうなる。
でもこの言葉を聞いて、僕自身があまりにも『普通に歳をとることができる』という前提で、ものを考えていることに気づいた。
僕が明日、いや、今日の夜にでも隕石に潰されてしまう可能性だって0じゃないというのに。
星空を落下してくる真っ赤に燃える巨大な球体。
それをホームランボールでも眺めるみたいに、口をあけて見上げる太古の恐竜たちの気分を味わうかもしれないというのに。
この世は『期間限定』
極論を言う。
すべては『期間限定』なのだ。
当たり前なものなんて、なにひとつだってない。
花は枯れるし、人はボケるし、隕石だって降ってくる。
でももしかしたら、その可能性を受け入れた瞬間から、当たり前だと思っていたものが輝きはじめるのかもしれない。
太陽だって、明日も登るとは限らない。
そのことをどこかでわかっているから、祖母の眼にうつる夕陽は、毎日美しいのかもしれない。
わかっているから、祖父は僕に今のうちに伝えられることを伝えているのかもしれない。
わかっているから、僕はこの『1年間』という『期間限定』の田舎暮らしを、今のところそれなりに楽しんでいるのかもしれない。
今日はもっとゆっくり夕陽をみてみようと思った。
あとは夫婦ゲンカさえ、どうにかなればなあ。
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