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夏が終わる。逃避行は文庫本の中で。

文章を書いている時間が、一番呼吸を感じられている気がする。

一週間がまた終わる。スマートフォンでTwitterのタイムラインを流して、空しくなった。

一日のうち、会話が占める時間は限りなく少ない。私は決して話すのが好き、というわけではない。むしろいつだって話し方は手探りだ。考えて考えて、出そうと思った一言を放つ前に時間切れ。頭のキレは悪い。空気を読むのも下手だ。そも、人との対話に煩わしさを抱きがちだった。そのくせ、人並みの淋しさを持ち合わせているんだから図々しいやつである。

スマホの電源を切って、文章を打ち込む。さっきまで、毛布に包まって、他人の優しさについて考えていた。誰かから優しさの施しを受ける自分のことが信じられなくて、打ち上げられた魚のように呼吸が苦しかった。他人のことを深読みして疑るようになったのはいつからだろう。深読みしたところで得られるのは、架空の他人への不信感だ。それは実態とは関係ない。関係ないはずなのに、架空と現実を一緒くたに考える。被害妄想が脳のシワとシワの間を這いずり回っている。他人を信用できない自分のことが何より、嫌いで、日に日に嫌悪感は増していくばかりだった。

自分ではない誰かを信用する、ということは並大抵の勇気ではできない。
少なくとも、自分すら信じるのが危うい私からしたら、称賛に値する勇気だ。

他人を信用できない人の心理について調べてみた。

■他人に興味が持てず、人間関係が面倒になりがち
■心配性で深く考える
■プライドが高く損をするのを嫌う
■傷つくのを恐れ、他人を信用しない態度をとる
(引用元:https://domani.shogakukan.co.jp/484983)

全部当てはまってしまって、暫くの間笑いが止まらなかった。笑ったあとで、頭を抱えてしまった。

これではまるで人間不信になるべくして生まれてきた人間みたいじゃないか。そうだったのかもしれない。

ちなみに人を信用する改善策についても調べてみた。「自分を信じること」と書かれていてそっとブラウザバックした。自分が信じられれば苦労はない。でも、どんなに自己啓発しても、自己研鑽しても自分を信じるってことには値しないんじゃないか、と思う。

自分が強くなればいいというわけではない。外面をいくら良く取り繕ったところで、そんなものは仮面でしかない。外面っていうのは、上辺のもの。ファッションと人体の清潔感、美しさ、カッコよさ、あるいは可愛さ。外面は建前にも現れる。人から愛されるキャラクタとか、誰もが憧れるカッコイイキャラクタとか。それらが努力の上で成り立っていることは理解している。並大抵の努力じゃないってことも想像できる。努力が自信に繋がるという論理も。

でも、自分が生きていること、呼吸をしていること、その全てが認められなくなったらどうすればいいのだろう。「認められないのなら、認めるしかないじゃないか」という投げやりな解答はしたくなかった。認められないものは認められなくて、だったら、その業をずっと背負っていけばいいのか。

分からない。分からない靄の中を切り抜けて、進んでいく。悩みと問いの中で、人生は左から右へ、そしてまた、左から右へ進んでいく。どんなに自分を認められなくても、私はまだ生きている。昨日と同じ呼吸をしている。たまに投げやりになって弱音を吐きながら、寝て起きて何もかも忘れたように振る舞う。平坦な日常のヘビーローテーション。生きている。都会の乾いた空気に喉を痛めて、文章を書くことで喉を潤している。

何も信じられなくなって、怖くなる。でも、物語は手に届くところにある。無音だと、壁のシミ1つから色々な妄想が湧き出てくるのでイヤホンをぶっ刺す。視界も明るすぎると、周りが見えすぎてしまう。だから、照明をやや暗くする。等間隔の呼吸とページを捲る音。何も考えないで、ただ物語のことを考えるのは、妄想過多な自分には難しくて、たまに文章が飛び飛びになるから、3歩くらい進んで読み直す。行ったり来たり、迷子みたいだ。

お話に没頭できると迷子にはならない。迷子にならない本は単純明快かつ、疾走感のある文体と物語を抱いている。文学を噛み砕いてゆっくり味わう時間も好きだけど、お話に救われたいときは疾走感のある物語がいい。ちょっと不思議な、輝かしい青春の日々なんかは特に良い。万病に効く。私にとっての精神特効薬だ。人のいる世界と距離を取って本を読んでいるうちに、少しだけ元気が出てきて、明日も頑張ろう、という心持ちになれれば、今はそれで良かった。

私は人のことを信じるのが苦手で、些細なことで勝手に傷つく。そんな自分に嫌気が差さない日のほうが少ない。差しっぱなしだと逃げたくなる。昔から、逃げることを許してくれる大人は近くにいなかった。本を読むことが好きになったのも、物語を書くことが好きになったのも、今思えば、自分なり防衛機制だったのかもしれない。本の中には絶対的な絶望が存在できる一方で、決定的な希望もまた存在できる。その安心感は現実のそれとは比類し難い。そんな、現実逃避のための物語が好きだ。

https://twitter.com/kamakura_tosyok/status/636329967668695040?s=20

鎌倉市図書館のツイートが話題になったのは、6年前のちょうどこの時期だった。夏の終わりは学生の自殺が多いらしい。私は高校生で、おそらくそのツイートをリアルタイムで読んだし、favoriteの星も押した。

逃げ道がほしい人はたくさんいる。自己啓発で自分を変えられる人しかこの世界にいないとしたら、僕はそんな世界こそフィクションだと糾弾するだろう。悩み間違って苦しむ現状を変えたい、でも、変えるのは難しい。自分1人でどうすることができない問題なんて山ほどある。

そういうときは逃げてしまえばいい。めいっぱい逃げるのだ。でも、貴方の生き様を捨て置く前にちょっとだけ落ち着いてほしい。落ち着いて、図書館の書架、あるいは書店の本棚を覗いてみてほしい。そして、1冊、1冊でいい、好きな本を手にとって、図書館なら借りて、書店なら買って、1人になれる静かな場所で読んでみてほしい。読みながら、ゆっくり噛み砕くんだ。その本のことだけじゃない、貴方の周りの全て、左から来て右に還っていくたくさんのものたちを。

読み終えたときには、胸の上辺のほうが沁みるかもしれない。でも、その感覚は本物だ。生きているってこと。その痛みが、少しだけ貴方を強くしてくれるはずだ。

私は逃げながらここまでやってきた。貴方も逃げていい。
めいっぱい、頁の向こう側、知らない世界を駆け回ってほしい。
そしたら、こんなどうしようもない世界のことも、笑い飛ばせるようになるかもしれないから。


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