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魔法少女の系譜、その160~『機動戦士ガンダム』のニュータイプとは?~


 今回も、前回までの続きで、『機動戦士ガンダム』を取り上げます。
 今回は、主に、ニュータイプについて、分析します。

 『機動戦士ガンダム』においては、ララァ・スンを筆頭として、複数の魔法少女、兼、戦闘少女が登場します。この作品における「魔法少女」とは、ニュータイプと呼ばれる人間です。予知能力やテレパシー能力に当たる能力を持ちます。
 ニュータイプは、戦闘で、卓越した能力を示します。このため、優秀な戦士として、前線に投入されることが多いです。
 ニュータイプになるのは、女性に限りません。男性にも多いです。主人公のアムロ・レイも、優れたニュータイプなので、「魔法少年」兼「戦闘少年」です。

 このニュータイプの発想は、どこから来たのでしょうか?
 二〇二一年現在ですと、ぴんと来ないかも知れません。じつは、『ファーストガンダム』が作られた一九七〇年代の日本は、オカルトブームでした。超能力、心霊、UFO、未確認動物などの話が、大いに流行りました。ゴールデンタイムのテレビで、オカルトネタを、がんがん流していた時代でした。
 当時、インターネットは、ありません。テレビの影響力は、絶大でした。

 とりわけ、昭和四十九年(一九七四年)のユリ・ゲラーの来日は、超能力ブームに火を付けました。ユリ・ゲラーは、「科学者にも認められた超能力者」という触れ込みで、日本のテレビ界を席巻しました。
 以前、『魔法少女の系譜』シリーズで取り上げた『超少女明日香』や『紅い牙』などの「超能力少女もの」―魔法少女ものの亜種ですね―は、明白に、このブームに影響を受けて、作られた作品です。『超少女明日香』も、『紅い牙』も、超能力ブーム真っただ中の昭和五十年(一九七五年)に、連載が始まりました。

 『機動戦士ガンダム』の放映が始まった昭和五十四年(一九七九年)にも、オカルトブームは続いていました。日本のオカルトブームは、一九八〇年代まで、続きます。
 昭和五十四年(一九七九年)の段階では、『超少女明日香』と『紅い牙』も、連載が継続中でした。

 こういう時代の状況の中では、「主人公や、そのライバルキャラに、超能力を持たせよう」という発想は、自然だと思います。
 ただ、昭和五十四年(一九七九年)の時点では、「超能力」や「超能力者」という言葉には、少々、手垢がつき始めていました。現実生活で使うならともかく、フィクションの娯楽作品で使うには、あまり格好いい言葉ではないと考えられたのでしょう。男児の憧れである「ロボットアニメ」に使うなら、やはり、格好よく聞こえる言葉が必要です。
 このために、「ニュータイプ」という言葉が生み出されたと考えられます。

 『ファーストガンダム』の段階では、ニュータイプは、自然に生まれてくるものとされています。のちのガンダムシリーズでは、人工的に「ニュータイプに匹敵する人間」を作ることが行なわれますが、『ファースト』では、まだ、そこまで行っていません。

 ニュータイプが生まれてくる理由については、作品中では、はっきりとは、語られません。「人類が、宇宙という新しい生活空間に進出したために、それに適応する『新型』の人類が生まれた」と、ほのめかされるだけです。

 宇宙コロニーから生まれたジオン公国は、この「宇宙に適応した新型人間」理論を、現実化しようと試みました。地球連邦の人間より、自分たちのほうが進歩していると、証明したかったのでしょう。このために、フラナガン機関という、ニュータイプの研究機関を持っていました。
 フラナガン機関では、ニュータイプの才能がある人間を見つけだし、「訓練」して、ニュータイプの能力を引き出すことをしています。一年戦争の段階では、人工的にニュータイプを生み出すところまでは、行きませんでした。けれども、訓練により、もともとニュータイプの才能がある人間から、さらに優れた能力を引き出すことまでは、できていました。

 フラナガン機関の成果の一つが、ララァ・スンです。彼女の過去は、詳しく描かれませんが、フラナガン機関に所属していた時期があることは、明言されています。
 事実上、ララァの専用機であるエルメスも、フラナガン機関により、開発されました。エルメスは、高度なニュータイプ能力を持つ人間にしか、操縦できない戦闘機です。

 ララァ・スンは、生まれつき型の魔法少女(ニュータイプ)ですが、フラナガン機関により、より強化された魔法少女(ニュータイプ)になりました。生まれつき型に、修業型が混じった魔法少女といえます。

 地球連邦のほうでは、ニュータイプの存在は知られていたものの、ジオン公国のように、系統立ってニュータイプを研究したり、訓練したりする機関は、持ちませんでした。
 主人公のアムロ・レイは、訓練することなく、実戦の中で、ニュータイプとしての能力が磨かれてゆきます。ミライ・ヤシマも、アムロやララァよりは弱いですが、実戦の中で、ニュータイプ能力を開花させます。意図せず、修業してしまった魔法少女(ニュータイプ)といえるでしょう。

 一九七〇年代の超能力ブーム、オカルトブームの影響は、アムロとララァとが、戦場で邂逅する場面に、表われていると感じます。
 アムロもララァも、身体は、戦闘機―アムロはガンダム、ララァはエルメス―に乗っていて、そこから動いていません。けれども、二人が共有したイメージの中では、二人とも、光り輝く平原のような空間にいます。それは、二人だけが精神的に共有できる空間で、そこにいる限りは、二人は、心の底から理解し合えて、高め合える存在です。
 これは、高度なニュータイプ能力を持つ人間同士にしか、行けない空間です。シャアですら、ララァと、このような空間に行き着くことはできませんでした。少なくとも、『機動戦士ガンダム』の作品中に、そのような描写は、ありません。

 その空間は、すぐに破れてしまいます。ララァが、アムロとは敵同士だと思い出したからです。アムロより先にシャアと出会い、愛し合ってしまったララァは、今さら、アムロのそばに行くことは、できませんでした。

 『ファーストガンダム』の段階では、目立ちませんが、ジオン公国がニュータイプを尊重する態度は、選民思想に通じます。のちのガンダムシリーズになると、その思想が強く出てくる作品もありますね。
 アムロとララァとの邂逅が、「選ばれし者だけが行ける、光り輝く平原」で行なわれたのが、示唆的です。

 一九七〇年代の超能力ブーム、オカルトブームには、ユートピア思想が混じっていました。「人間には、テレパシーなど、隠された超能力がある。それを目覚めさせれば、人類は、今のようにいがみ合うことなく、みんながわかり合える」とか、「宇宙には、地球人より優れた知性を持つ宇宙人がいる。彼らの星へ行けば、もっと精神的に高度な生活ができるに違いない」といった思想が、どこかにありました。
 アムロとララァとが邂逅した「光り輝く空間」は、フィクションの中で、こういった思想を、うまく昇華したものではないかと考えます。

 とはいえ、『機動戦士ガンダム』では、アムロとララァの邂逅した「光り輝く空間」は、一瞬、現出しただけで、すぐに破れてしまいます。その直後に、ララァが戦死して、あの「光り輝く空間」は、二度と手に入らないと、突きつけられます。アムロも、視聴者も。
 この点、『ファーストガンダム』は、本当に、容赦ありません。「現実は、そんなに甘くない」ことを、思い知らされます。選民思想も、ユートピア思想も、吹っ飛びます。まさに、「リアル」ロボットものです。

 先に書きましたとおり、『機動戦士ガンダム』の段階では、ユートピア思想や選民思想は、目立ちません。作品としては、はっきり、それらを否定しています。
 しかし、のちの一九八〇年代の「前世ブーム」などにつながる種子が、ここにあったと思います。

 今回は、ここまでとします。
 次回も、『機動戦士ガンダム』を取り上げます。



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