人生のもつれの解消

恐怖に囚われてしまった。孤独感にも。ネガティブな空気に呑まれそう。久しぶりに大好きなウインナーコーヒーを飲んだ。ウインナーコーヒーになら呑まれてもいいなぁ。久しぶりの切迫感。これは必要不可欠な部類に入る気もする。対策するには、何を、何を。。正直分からない。何も手に付かない。訳の分からない焦燥感だけがある。自由が無くなるかもしれないことからの逃走だろうか。息が出来なくなるような。窒息しそうな。食べても寝ても埋まらないような。忘れるしか。それだけ私には自由が大切なんだろうか。大丈夫だろうか。生きていけるだろうか。
私にとっての自由が何なのか、本音と建前が分離しているのでは。逃げてきたもの。ルールに従いながら生きること。それは社会の中で生きるということではないのか。人間は社会的な生き物という、それに抵抗しながら生きているから苦しいのではないのか。単純に欲求不満だからという理由で片付けることもできる。あるいは不要な思い込みに囚われているとも考えられる。ストレス解消という大義の元に誤魔化すこともいくらでもできる。なぜ社会と関わりたいと思いながら同時に避けようとしているのか。社会参加することのある種の不自由さというか、権力に呑み込まれて抜け出せなくなる危険性を強く感じてしまっているのか?権力とは?成長しなければならない。これは同調圧力?本能?神の意思?正しさを見極める方法は何だろう。成長しなければという圧力、権力。動植物の成長、どこが権力?圧力?成長には何の罪もない。しなければ、、生物の本来的な成長にはそんなものは存在しない。このし、な、け、れ、ば、が不自然極まりないのである。人間にとってはある意味自然、よくあることかもしれないが。言い換えれば、しなければ=圧力、権力である。自由の反対側である。すなわち自由とは、してもしなくてもいいである。
ごちゃごちゃ語ってしまったが、この猛烈な息苦しさの原因の一つは、妊娠による身体的圧迫。心身は意外なほど連動している。そしてもう一つは、「しなければ」が私のキャパシティーを超えたこと。文字に起こしていないので、余計にパンクしたのだろう。書いたら現実になりそうでちょっと怖かった、それだけだ。「社会に取り残される不安」ありふれた悩みの一つであるにも関わらず、まんまと陥る。悩みの解決法、対峙、保留、逃げ。私にとっての社会が何か。「しなければ」と同義。しなければならないことに取り残される不安。
しなければならないことって何だろう。誰が決めたんだろう。口コミ?叡智?私の中で、あまりに口コミや評判で物事を決断するという習慣が蔓延ってしまったのだろうか。情報社会の代償?大量生産大量消費、物に価値を置く常識からようやく脱却できたかと思えば、情報つまり評価に価値を置く常識へとすり替わった。評価には嘘も真実も含まれる。風のように軽く頼りないとも言える。社会全体で評価の信頼性を磨いていく流れになるのだろう。
えっと何の話だったか。自由が失われるかもしれないという恐怖、不安、焦燥感から、その正体がキャパオーバーした「しなければ」であるとわかる。さらに「しなければ」の源泉は、果てしなく膨張し溢れている情報、評価であり、それを何の警戒もなく貪り吸い込んで息苦しくなっている状態。現在の多様化したデバイスはテレビジョンより圧倒的に情報量が多い分、実はタチが悪いのかもしれない。勝手に自由が消耗されるリスク。
では、単に情報をシャットアウトすればいいのか。現実的ではないような気がする。他に手段はあるだろうか。情報に呑まれるのは自分軸がないからではないだろうか。軸の重要性。評価によりもたらされるしなければに翻弄されず、筋の通った自分軸、志を持ち、しなければに対抗する。してもしなくてもいいという自由に変換させる。最近あやふやになっていると感じていた自分軸。ここをもっと太く強くしなければならないのではないだろうか。
働いているか、子育て中か、時間の有無、友達や仲間の有無、趣味の有無、結果はそこに行き着くのかもしれないが、注目するのはそこではなく、自分はどうしたいか、それだけではないのか。そしてその自分軸を継続的に運営していく、習慣化していく。そういった構築過程ではないのか。そこに芸術性を見出していく。自分はどうしたいか、どのような質問を投げかけたらよいだろう。
丹下健三の建築には中心軸が設けられているそうだ。左右の異なる建築が軸を歩いている中で一つに調和される。私の真ん中を貫いている軸とは。生死が関わってくるだろう。
私にとって子供とは何だろう。世間の評価から引用せずに、自分の言葉で。子供と一緒に過ごすことで自分の過去がもう一度トレースされ、より私を磨いてくれる、深みをもたらしてくれる存在。成長につれ、子供の未来は自分とは違う道に分かれていく。何て貴重な経験なのだろう。してあげなければならない、で一杯一杯になっていた。そんなことは結局できないし、子供としても押し付けがましいだけだろう。自分だったらどういう親がいいかな、それすらも考えない、そのくらいでいいんじゃないだろうか。私だったらそんな親がいい。自分のせいで犠牲になっている、なんて絶対思われたくないだろう。そうか。何だか肩の荷が少し下りた。馬鹿な考えを持ってしまったものだ。
自分軸とは、これからどんな人と関わろうとも関わらずとも、依存せずに真っ直ぐに生きていくだけ。依存というのはしてあげた、してもらった、に固執することだ。素直に生きていれば好意を与えたい、受け取りたいと思うのは当然だろうし、実際どうした、という物質の動きは本来的にはあまり関係がないように思う。愛の気が巡ること。私の人生を振り返った時、自律がテーマになっているような気がする。条件付きの愛や精神的依存、そこから生まれる怒り、悲しみ、激しい愛憎。非常に苦しい思いをする。そこを無事に乗り越えられるか。物質的、精神的依存を乗り越えること。自律すること。自分軸で生きること。何やら壮大なテーマになってしまった。自力と他力。この理解も進まず悶々としていたが、もっと自他は同化しているもので分けられるものではないのかもしれない。本物の自分軸は、他力の、神の軸でもある。一つ引っかかるのは共生。自律と共生。これもおそらく自力と他力の関係に似ているだろう。本物の自律とはもちろん他者を拒絶することではなく、共生することでもあるはずだ。久しぶりに長文を書いてしまった。それだけ滞留していたエネルギーが強かったのだ。
終わりに、自由がなくなることの不安、恐怖、焦燥感の問題は、自分軸があやふやなまま、現代社会の情報(評価)至上主義に翻弄されたことが原因であったと考えられる。自分軸とはどんなに近い関係であっても、与える受け取ることに固執して歩みを止めることなく、誰に寄りかかることもなく、左右の風景を楽しみながら、それと調和し、自分の真っ直ぐな道を歩いていくこと。自律と共生の道を行くことである。それを忘れずに肩の力を抜いて生きることが大切だ。


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