富山に帰って3年


っていう題名で
2021年10月11日、メモに書いていたの
すっかり忘れていた。

読み返した。

夢に破れて自分を見失って、
どん底だった2018年10月。


それから3年後に、書いた。
2018年10月以降の描写、
と、
3年後の自身に至るまで。


今思えば、2018年は、
今後の人生を自分軸で生きる
大きな転換期だったのかな、、、、。

ほとんど、そのまんま、ペーストします。

【富山に帰って3年】

3年かかった。

自分が無理なく出来ることで人の役に立つ、自分の知識や経験、資質を活かし、自分を生かす。これを軸に、選んできた仕事や日々の過ごし方。そして新たに、始めたこと。
やっと、落ち着いて、俯瞰して自分を見られたかな、、最近、やっと。



今日のエステ楽しかった。久々の。そして初めての4名連続。
2名エステ、2名接客。大充実。
それで、思うのは。出来ることで人の役に立ち続けること、そして、それが許されたならば、もっとこうしたい、もっとこうした方が人の役に立てる、そんな発想のもと、日々行動に移したり、移せなかったり(自分の勇気がなくて)でも移せなくていいやって、それってもともと苦手分野だったりするから、仮にできても長くは続かないし。別の、自分の勝ち方を見つけたらいいんだって、無理せず生きれるようになったかなって思う。


「The next stop is Toyama/ 次の停車駅は富山—-富山」
——————————
丁度3年前は、小さなスーツケースと、大きなカバンを手に、車両入り口の真上にある電光掲示板に表示された文字を見ながら、平日の昼間、空席の多い北陸新幹線の通路で、ひとり、立っていた。
「ああ、やっと、、、やっと。帰ってこれた。」
今まで何度も見た光景、電光掲示板に映る「富山」の文字。それまで何度も見たはずのに。やっと帰ってこれた、ってその時初めて思った。

どうしてだろう、それまでは、富山に帰れても基本2泊、もしくは頑張っても4泊がマックスの長さだったからかな。
身体は富山に帰ってきたのに、心は関東に置いてきぼり、頭から仕事が離れられるわけがなかったんだって、その時初めて気づいた。

そして、自分のことを責めていた。最大級レベルに自分を責めていた。自分がそれまで経験した中で、最も周りの人々に迷惑をかける形で、逃げるように、地元、富山に帰ってきた日でもあった。

その日から残りの10月は実家で休養することになっていた。

なにもしないのはだめだ、計画を立てて、この休職期間を無駄にしないように、自律した生活を送ろう。そう思って、計画通りに日々を送ろうとした。

仲の良い友達にも会った。先輩にも会った。後輩にも会った。気の知れた存在ばかり。

だけど私はどんなときも、相手に申し訳ない気持ちでいっぱいになって、誰かに会うこと自体がだんだん怖くなっていた。

日に日に、元気を取り戻すだろう。仕事から離れて、一人暮らしも辞めて、実家で暮らせば、きっと私は元通りになる。

きっと、笑顔でいられるように、なるだろう。物事だって、前向きに捉えられるようになるだろう。

違った。

どんどん、自分に自信がなくなっていった。
どんどん、できなくなっていった。
元になるはずだった、自分が、いない。

どこにもいなかったのである。

もう、元には戻れないらしい。

仕事から離れたところでなにも変わらない。

私は、そういう表面的な処置では治る状態では無いらしい。

もっと根本的に、深いらしい。

そう痛感せざるを得なかった。

それがひどくショックで、どうしたらいいのかわからず、泣いていた。

帰ってきた翌日に立てた計画通りには、いかなかった。

できないことが日に日に増えていった。

本を借りようと図書館で本棚の通路を歩くと、めまいがした。

何をするにも、怖かった。特に夕方になると、恐ろしく涙が止まらなくなった。

その頃家族や友達が撮ってくれた写真に映る私は、なぜか全て、疲れている。


ドクターストップがかかった。
休職を延長できることになった。安心した。

11月。
ずっと、横になっていた。
外出は、かろうじて犬の散歩くらい。当時飼っていた犬がいなかったら、自分で家の外に出るきっかけは、なかった。
それ以外ほぼ、寝ていた。こんなに、人間って寝れるんだ、って生まれて初めて知った。
昼間、誰もいない居間で、カーテン越しに差し込む光に当たりながら。
家族はみんな、仕事に行っている。

この時、フジ子・ヘミングの「ため息」がYOUTUBEから流れてきた。

初めて聴いた。

なぜだか、涙がでていた。

この頃、丁度同じ時期に休職していた高校時代の友人がいて、
ある日その子の元へ泊まりに行くことになった。
当時この子が唯一の理解者であり、私にとっては希望の光みたいな存在だった。
親が、集合場所の駅まで送ってくれた。

特に関東へ帰るわけでも無いのに。

ましてや県内の友人宅へ行くだけなのに。

なぜか両親とも、私を駅まで見送りに来た。

それで、会社のこと、自身のこれからのことを考えなければいけなかった。

本当は、休んでいる暇なんてない、私は決めないといけない。
自分が思い焦がれて就職した会社を辞めて地元に戻るのか。頑張ってまた続けるのか。はたまた関東で転職するのか。
自分がこれからどうやって生きていくのか、真剣に考えないといけない。

この頃は絵本しか読めなかった。
活字が、読めなかった。
会社に戻って同じ仕事、もしくは異動して新しく仕事を覚え直す、そういう気力は、なかった。


12月も結局、休職。

でもやっと物事に興味をもつことができ始めた。

飲んでいた薬を違うのに変えたら、本当に、前月までのだるさが嘘みたいになくなり、そして前向きになった。

この感じ久々!そうそうこの感じ!!忘れかけてた、、、やっぱり先月までの私は、私の「普通」ではない。

興味とはいえ、示せる範囲は狭く、限られていた。

でも本能的にわかっていた。基本的に何にも興味を持てない中で、それでも心が惹かれるもの、やってみたいと興味を示せるもの、

それって、理由無しに、頭で考え込んだ理由無しに、きっと心がときめいているからだ。天性的に好きなことに出会う、一種の前触れだろう。

それが、カルチャースクールのハンドケア講座だった。

なんかやってみたいのあれば、やってみたら?って、母が持ってきてくれたチラシのひと枠に書いてあった。

それで、会社へ一度顔を出さなきゃいけなくて、関東へ帰った時に、そのハンドケア講座のスクールがある自由が丘で、講座を受けた。

周囲は初めて会った人ばかり。なのにハンドケアの練習を始めた頃には心が、ちょっとオープンになっていた。

自信がなく、いつも斜め下を向いていた私にはすごく久しぶりの感覚で、自身に新しい風が吹いたようだった。

1日のハンドケア講座を終えて帰るころには、心がほかほかしていた。

やるなら、こういうのを仕事にできたらいいな。十分な収入になるかわかんないけど、自分の心も喜ぶ仕事ができたら良いなって、
ひとり、こころもち、るんるんしながら、クリスマスムード漂う自由が丘の街を後にした。


1月。退職した。
浦安のアパートからも、退去した。引っ越し費用とか結構かさんで、母と私、本当はその日、ディズニー発富山駅行きの夜行バスで帰ろうとしていた。
だけど午後4時くらいには引っ越し作業が終わった。特に浦安に残る理由もなく。
そわそわして、その夜行バスの出発時間である22時まで、浦安にいられそうにも無かった。
そしたら母が、ちゃちゃっと新幹線で帰ろっかって、明るく提案してくれて。
お金がもったいないなって思ったけど、自分の元気も無かったし、何より、早く、富山に、帰りたかった。早く浦安をあとにしたかった。
母さん、優しいなって思った。

混み合う平日夕方の新幹線、母と私、隣同士で座って帰った。車内で駅弁を食べた。

帰ったら、父がいつもの席でご飯を食べていた。予定より早い私の帰りを、言葉は多くないけど、温かく迎えてくれた。

幸せだった。

家族のそばにこれからずっといられる。もう安心して暮らせる。

でも私はまだ、これから何をするのか決まっていなかった。

ただこの頃は、活字を読めるようになっていた。

そこから、本気で分自分と向き合って、
自分軸で選び、生き始めたのだと振りかえって、思うのだ。


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2022.7.4
そのエステから、距離を置こうかなと、
思っているのです。今の私。

正しいのか正しくないのか。

今日家に帰って、届いていた。

「私は何度過去に戻って違う選択をして違う生活をしても、私が私である限り、同じことで悩み苦しみ、そして喜び、幸せになるんだろうなと思う。」

って、先日の金曜ロードショーの背景画のポストカードに、言葉が添えられて、友人から届いていた。

どうしてか、涙が出た。

その通りだよなって。

その子は自分のことを、
受け入れられてるんだろうなと思った。

私も、今、選択に迷ってるんだけれども。

自分が、自分で、ある限りは。

他人からどう見られたとしたって、

私の、人生を。歩めるはずだよ。


すごく俯瞰して自分を見つめ直せる気がして。

なかなか会えないけど、

こういう友人をもてていることに、

すこぶる感謝だわ。

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