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◆読書日記.《酒見賢一『後宮小説』》

※本稿は某SNSに2020年12月6日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 酒見賢一『後宮小説』読了。

酒見賢一『後宮小説』

 ファンタジーノベル大賞の第一回大賞受賞作。

 井上ひさしや荒俣宏という辛口の選考員のためもあるが、この第一回受賞作のためもあって「ファンタジーノベル大賞」という小説賞は高いレベル作品が集まる文学賞となった。第一回にして賞の性格も決めた作品。

 因みに、本作は後に日本テレビのスペシャル番組として『雲のように風のように』という題名でスタジオぴえろ製作でアニメ化もされている。

蜘蛛の様に風邪のように

 この時のキャラクター・デザインと作画監督が元ジブリのアニメーターであった近藤勝也であったために、この作品をジブリアニメだと勘違いしている人も多いと言うが、れっきとしたぴえろアニメである。


<あらすじ>

 時は1607年(槐暦元年)素乾国の第17代皇帝、腹宗が崩御された。

 帝都の後宮は解散せられ、宦官らが全国に散らばって新帝の妃候補を募集し始めた。

 これが所謂「宮女狩り」である。宦官は推薦した娘が妃となれば帝の近くに召し抱えられるし、全国の娘は身分の違いを飛び越して皇太后となるチャンスであった。

 緒陀県という田舎町に住む陶器職人の一人娘・銀河は町に立てられた募集広告に興味をひかれた。

 宮女とはどういうものなのか、後宮とはどういう所なのか。
 近所のお姉さんの話によると「三食昼寝付き」で、学問までも教えてくれるという。

 彼女は好奇心とエネルギーの塊のような少女であった。

 田舎町だったためか、さほど立候補する娘もいなかったと見え、銀河は真野という宦官に選ばれて、一路都を目指す事となる。

 彼女はその後、素乾城の後宮に入り、他の妃候補の宮女たちと鎬を削る毎日が待っていた。

 ――この銀河こそが後の素乾国18代目皇帝の妃・銀正妃になる娘なのである。これは、そんな波乱万丈の人生を生きた銀河と言う名の少女の物語。
(※ちなみに、銀河が後の皇后に選ばれる事は物語の最初のほうで判明する事なのでこれはネタバレではない)


<感想>

 このあらすじだけ聞くと、ごく普通の中国歴史小説を想像するかと思うのだが、この「素乾国」という国は中国はおろか、世界のどこにも存在しない架空の国である。

 それなのに著者は「この稿を書くにあたり、拠ることになる文献は「素乾書」「乾史」「素乾通鑑」の三種で……」等とヌケヌケと文献まで挙げている。

 勿論、本文で挙げられている文献などは全く存在しない。
 それだけではなく、選考委員の矢川澄子の言によれば「素乾国」の「素」も「乾」も偽りや架空のものを表す字句なのだという。

 この人を食ったような仕掛けを『後宮小説』は、冒頭からラストまで一貫して様々な形で読者に提示してくるのである。

 著者はこれが本当に中国に存在していた王朝であったと本気で読者に信じこませようとするかのように、やれこの部分の史実の解釈は難しいだの、「素乾通鑑」には以下のように書かれているだの、後の歴史家の評価はこれこれこうであるだのと、のうのうと宣っているのである。その飄々とした語り口の憎らしい事。

 ぼくは本作のアニメ化作品である『雲のように風のように』は、既にテレビ放映されたものやビデオレンタル等で幾度か見ているので、本作のストーリーは既に最初から最後まで知悉している。

 だから「物語」として本作を楽しむのは、初読よりかは些か楽しみにくいものがあったのだが、「それ以外」の要素が実に楽しかった。

 やはり、アニメと小説というメディアの違いというものは大きいのだと、本作を読んで改めて思わされた。

 ラノベのような、映像化やマンガ化をいくらか念頭に置いた作品ではなく、ちゃんと「文章」に拘った文学作品ほど、映像に翻訳すると原作小説のニュアンスというものは否応なく変形してしまうものだ。本作も、別物と言っていいだろう。

 本作は、この架空の中国王朝を、本気で中国史の中にねじ込もうとしているかのように、あらゆる方法を使ってその真実味を増そうと工夫を重ねている。そこが、ぼくには面白く思われたのだ。

 例えば、素乾国のどこそこの地方に伝わることわざや、素乾国の都ではどういった服装が流行していて、そのために銀河の服はダサく感じられた、等という細かい設定だ。

 また、素乾国の貴族階級の女性が田舎の一般庶民の娘をどう見ていて、その階級差別の意識が主人公の銀河とどのような対立を引き起こすのか、という心理ドラマも作り上げたりもする。

 中でも感心したのが、素乾国の後宮の存在理由とその建築思想を示した「後宮哲学」であった。銀河たちはこれを後宮で学ぶのである。

 この「後宮哲学」を象徴する重要な施設が、後宮に出入りする者が通らねばならない長く暗いトンネルである「垂戸(たると)」である。これはいわば「膣口」の象徴なのである。
 そして、その「垂戸」の先につながる素乾国の後宮は「子宮」のメタファーとなるのだ。
 そこに集まった「精子」のメタファーである宮女らが、たった一つの妃の座を競い合い、一人が帝の正室となる。
 そして、その正室となった娘だけが「国母」となって「国生み」をし「次の国」となるべき新帝を出産する。
 旧帝の子どもである新帝はまさしく「古い素乾国」を「新しい素乾国」に生まれ変わらせる。国を生み、帝を生み、民を生む。
 その全ての原点はこの「子宮=後宮」にあるというのが「後宮哲学」なのだ。

 ――当時若干25歳の若者が出した発想としてはなかなかその象徴性の道具立てが堂に入っている。どこかの文化にあった考え方を応用したのだろうか?

 このような理屈を生み出すだけでなく、後宮に設置された女大学にて妃候補である宮女たちが学ぶ「房中術」は、しばしば本物の古代中国に存在していた「房中術」の内容を知っている人にしかわからないくだりが出て来る。

 古代中国の房中術は、皇帝が不老不死になるために性のエネルギーを練り上げて体内に不老長寿薬を発生させる修練法であった。
 男性の精液は不老長寿に繋がる性のエネルギーに直結しているのでむやみと漏らしてはいけない、等という理屈も古代中国の房中術には実際にあった事だ。

 つまり本書は全くのデタラメばかりでなく、著者はちゃんとした中国知識を学んだうえで中国の「パロディ王朝」を作り上げているようなのである。
 しかし、ここまでしっかりと設定を築き上げた上での架空の王朝というのは、立派にセンス・オブ・ワンダーである。
 こういった所が昨今しきりに量産されている日本の安易な「ファンタジー」と違う所と感じる。

 実は、本作が受賞作となった「ファンタジーノベル大賞」の選考員は、それぞれ「ファンタジー」をどう捉えるのか、という事で悩んでいたという。
 勿論、当時は既にラノベは流行っていたし、ドラクエもFFもスレイヤーズもオーフェンも立派に成立していた時期である。

 選考委員の一人である矢川澄子は次のように言っている。

「ファンタジーとは本来、人間の頭の中にしか成立しない代物であり、可視の現実以外の世界(anywhere out of world)を思い描く能力であって、それ以外のいかなる規制も存在しません。とすれば、各人の個性がそれぞれ異なるように、人間の個体の数だけ異なるファンタジーが当然あってよいはずなのに、なぜか我が国ではファンタジーといえばともすれば妖精とか魔女とかいった外国種のキャラクターの出没する領分や、もしくは現実逃避のための便法などと誤解されて、安易な類型的作品があとを絶ちません」
            ――酒見賢一『後宮小説』新潮文庫版解説より

 これはぼくも同感である。

 現在も小説やアニメやゲームやマンガ等で大量に生み出されている「ファンタジー」と言えば『指輪物語』的な「ソード・アンド・ソーサリー」の世界ばかり。
 そういった安易なファンタジーRPGパロディ作品などというものは、「他人の作った世界観にタダ乗りしているだけ」でしかないと思う。あれでは全くイマジネーションの個性を感じない。

 本書『後宮小説』を読むと、ただ一冊の本を書くためだけで、ここまで理屈をこね回し、ここまで細かく設定を詰めるか、という著者の凝り性を感じて、そこに面白さを感じるのである。

 こういった記述に迫真性を持たせる手法を見て、ぼくはすぐさま今年読んだ原田実『偽書が揺るがせた日本史』を思い出した。
 人びとは昔から、自分の先祖を権威付けさせる事で自分が高貴な生まれなのだと主張するためだったり、自分の所属する神社の神格を上げるためにその神社の由来について幾分「盛った」由来を追加した記録を作ったり……といったように、己の欲望のためにしばしば「偽書」を作って来たのである。

 つまりは「詐術」のたぐいなのだが、この『後宮小説』の著者は、そういった「詐術」にすら思える仕掛けを熱心に工夫し、それを素知らぬ体で飄々とした文体で読者の前に提示しているのである。
 ここまでしてこそ、ファンタジーとしての世界観は厚みを持ってくる。

 本作は決して他のファンタジー作品のような「超常現象的な事」は起こらない。魔法も出てこなければ、架空の動物も魔物も精霊も現れない。
 しかし、そんな「現実的」な事しか起こらない物語であっても、本作はまぎれもなく「ファンタジー」以外の何物でもなかった。
 ファンタジーという架空の世界を生み出すのならば、これくらいの粋な手腕を発揮してもらいたいものである。――成熟した読者というものは、作者から上手く騙される事を心から欲しているのである。

 本作を中国史に無知な人間に渡して読ませてみれば「ああ、こういう史実もあったのか」等と信じてしまいそうな説得力があるし、著者はたぶん、読者がそう勘違いしてくれればこれ幸い「しめしめ、上手くいった」などと思うに違いないとさえ思う。これは著者なりの、そういう『偽書・中国史』なのだ。


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