見出し画像

◆読書日記.《柳田國男『先祖の話』》

※本稿は某SNSに2019年12月31日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 柳田國男『先祖の話』読了。

柳田國男『先祖の話』

 まず柳田は、日本人では「先祖」という言葉には二通りの解釈で用いられるという事を説明する。

 一つが自分の血筋のルーツとなる、初代当主としての生きたご先祖様。そして、盆などになると精霊の姿となって家に戻って来る、祀られる"みたま"としてのご先祖様、の二通りだった。

 本書はこの二通りのご先祖様のことについて言及する。

 そして、メインとなるのは「祀られる"みたま"としての先祖」の正体である。

 この謎を解いていく事によって、外来宗教である仏教や儒教やキリスト教等の考え方ではない、日本古来からある人の死生観や葬送の儀式、祖霊崇拝や先祖祭にまで論は及んでいく。

 本書を読んでいると、われわれ日本人の古来から持ち続けていた死生観というものは、渡来宗教である仏教の様々な考え方が後から被さって覆い尽くしているために、元来のものとは形が様々に変化して、見えにくくなっているようだと言う事が分かって来る。

 これを柳田はさまざまな地域の習俗をあげて説明する。

 例えば「ほとけ」という言葉はもともと「仏陀」を意味しているのではなく、古来は日本語だったのではないかという捉え方だ。
 柳田の推測によれば「ホトケ」の語源は、祖霊を祀る時に食饌を盛る器物である「ホトキ」の事で、即ちそれを捧げ祀る死者の霊を「ホトケ」と称したのではなかろうか、と考えるのだ。

「ホトケ」の語源はお盆の行事から始まったのではないかと言うのだ。

 日本では古来からお盆や正月になると祖先の霊が家に戻って来るのでそれを祀るという風習があった。
 仏教の浄土宗などでは、死者は現生の執着を捨てて成仏し浄土へ旅立ってしまうという考え方があったが、日本の死者はすぐ戻って来る。
 ここでも日本の死生観は若干混乱をきたしている。

 死んだ者は一体どうなるのか?

 西方浄土や天国やニライカナイのようなどこか遠い場所に行くのか、黄泉のような地続きの場所に行くのか、すぐ帰って来られるような近場にいるのか、それとも生まれ変わって別人になるのか。ここが曖昧なままだと、信者は安心して死ねない。

 浄土宗は遠い西方浄土に成仏して行ってしまうと人々に教え込んだが、日本の古来からの死生観からすると、死者は割と近場にいる事が多いのだそうだ。
 例えば近くの山に集まっていて、年に数回は実家に帰省してくる。だから、祖先の霊も家に返って来る盆と正月は皆、実家に帰省して祖先祭を祝っているのである。

 そこら辺をウロウロと普通に歩き回っているような死者は、江戸時代などの怪談によって「幽霊」と呼ぶ妖怪のようなオドロオドロしい存在になってしまったが、日本の古い死生観からすれば死者はそこらを普通にウロウロと歩き回っていたと考えられる。
 現生と幽世は重なっていて、世界は幽世に満ちていたのだ。

 一家の先祖の霊は我々が住んで代々受け継がれてきた土地のすぐ近くにいる。先程も言った霊山のような場所であったり、近くの鎮守の森だったりに留まっている。

 鎮守の森に太古から留まっていて、年月を経て徐々に一つに融合していった先祖たちの霊が「みたま」となり、それが「氏神」として氏神神社で祀られる。
 つまり、お正月に氏神様や産土様を祀った神社にお参りに行くのは祖先祭の一環だったのだ。
 べつに日本の偉い神様の所にご挨拶に行っていた訳ではないのである。
 だから、基本的には正月は近くの氏神神社、産土神社にお参りに行くのが正しい。

 では、祖先祭であるというのならば、お墓には行かなくても良いのだろうか。

 行く必要はなかった。
 何故なら、日本の古い死生観では「遺体の埋められている場所」は「先祖が眠っている場所」ではなかったからだ。

 いまお寺の墓地などに収められている先祖代々のお墓は、昔は単なる「石塔」でしかなく今で言えば「記念碑」のようなものだったらしい。

「お墓参り」は、例えば広島の慰霊碑の前で鎮魂祭をやっているようなもので「そこに遺体が埋まっているかどうか」というのは本来関係なかった。

「日本人の墓所というものは、元は埋葬の地とは異なるのが普通であった」と柳田は言う。この風習を柳田は「両墓制」と呼んだ。

 古来日本では、遺体の埋葬場所は時を経て忘れ去られる場所であったのだという。

 人の埋葬場所には、その上に石を置いたり木を植えたり木簡を刺したりとしていたそうだが、時を経てその場所を記憶する人もいなくなれば自然と忘れ去られる。

 それが日本の「埋葬場所」だった。

「埋葬場所」と「礼拝場所」とを同一視するというのは、外来宗教からの考え方の影響だったのだそうだ。

 つまり、埋葬場所はどこでもいい。
 墓所となる石塔(つまり「墓石」の事)は、埋葬場所ではなく元々「祭場」だった。それを家の中に入れたのが「仏壇」だったり「神棚」だった。

 日本人の古来からの死生観というのは、このような様々な外来宗教の影響によって混乱が生じているのである。

 日本では死者と生者というのはもっと距離が近かったのだ。
 われわれは死んでしまった先祖たちと年に数回会うことができるし、自らが死んでも年に数回は戻ってきて子や孫に会いに行く事ができる。
 どこで死のうが実家のある故郷の土地に留まって、死後も永遠に一族とともにある。
 日本人が他国よりも「死」を恐れない理由が、そこあったのではないかと柳田は推理している。

◆◆◆

 正直、本書は角川ソフィア文庫版のライトな装丁のために、もっと軽い読み物だと思って完全に油断していた部分がある。
 とんでもない。

 本書が書かれたのはちょうど東京大空襲の激しい空襲下の折であったという。
 その時期に柳田國男が日本人の重要な死生観を巡る一大問題についてまとめようと思ったのは何故なのか。

「私はこれまでどちらかというと、改良論者の一人であった。少なくとも日本国民のここから後の生活ぶりは、現在の通りを続けていけばそれでよいなどと、思っていたことなどは一度もない」――柳田國男『先祖の話』より

 本書の序跋では、柳田がそもそも古来からの日本の考え方を記録に残そうと考えた経緯が述べられている。

 保守的に「わが国の伝統を守るべきだ」ではなくて、今後変化を起こしていくならば、一から新しく考えるのと、これまでのこの国の文脈を理解してそれを踏まえて考えるのとでは、大違いだと思っていたようだ。

 本書の書かれた空襲下の東京。次々に破壊され灰塵と化していく東京を眺めながら、柳田は日本人のルーツをしっかりと記録に残し、将来へ残そうと思った。

 日本はこれからも変わっていくだろう。
 戦後も、どのようになるのかはもう分からない。

 だが、過去を踏まえて変えるというのと、それを知らずに、何から何まで変えてしまうというのとでは大違いなのだ。

「御手本になるか参考になるか、それはまた今後の若い研究者にきめてもらってもよい」と柳田は言う。
 自らの判断で変えていくためには、物事をちゃんと知らなければならない。とにかく「知らずにいるという事が良くない」という事だ。この考えには、ぼくも同感なのだ。


この記事が参加している募集

#読書感想文

188,766件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?