死者の日@メキシコ、在宅医として死に向き合ってきた僕が感じる“死”と“生”のエネルギー
メキシコに来ています。死者の日のお祭りに参加するために。
最も盛大に祝われるという、オアハカ。11月1日、2日にわたって大きなお祭りが行われます。まさに、今年のこの二日間、オアハカに滞在しました。
暑く晴れた日に祭りの熱気、街の風景、色も音も匂いもエネルギーも、渦巻いています。
「死」の祭りですが、「生」を感じることがとても多い時間でした。
やはりとてもつながっているのだな、と。
広場の公衆トイレ(1回4ペソ)の前に屋台があって日本のインスタントラーメンが売ってる。ぼんやり立ってる僕に子どもが買ってよ、とマリーゴールドを差し出す。
食べて出して売って稼いで歌って踊って笑う。
死のお祭りは「生」で溢れています。
最近、
いろんな人とお話ししたり、出会ったり別れたりする中で考えることがあります。
「死」とか「命」って誰のものなんだろう、ということです。
たとえば医療的ケア児たちは、確かに、本人の中に病気や障害を内包していますが、実際の困りごとは、社会や外界の他人(親も含む)という外側との関係性で生まれます。
私たちが空を飛べないのを障害と思わないのは(たとえ鳥たちに思われたとしても)、空を飛べないことで困る社会や他人に囲まれていないからです(空を飛べない人たちで作った社会だから)。
同じように「死」は、呼吸停止や心停止を死とする、という医療生物学的な科学的線引きはありますが、その人の内側だけで起こることとはやはり思えないのです。
映画「リメンバーミー」では、「最後の死」つまり、生きている人に忘れられると、死者の国からも消滅する、とされています。
生物としての死と、人としての死。
その境目(たぶん、はっきりした境目ではなくぼんやりしたものなのだと思います)にしっかり思いを馳せておきたい、考えてみたい。そしてそれが、人が生きる、ことに伴走する私たちにどんな気づきと行動を起こさせるのか。
生きる、ということは、心臓が動き、日々を暮らし、人生を重ねること。医学部に入った時から、いや中学校で生物学を学び始めた頃から、第一番目の生きるに執着しすぎてきた気がします。心臓、暮らし、人生。ひょっとするとこの旅で、その次の4番目に出会えるような期待もあります。
今回の旅に向けて自分で振り返った、医師として向き合ってきた「死生観」についても別noteに書きました・・
最終的に遠くメキシコに来ることに背中を押したのは・・・
オレンジのZ世代の研修会で「死」についてのセッションを行った時、泣きながら笑いながら語り合う、若手スタッフのエネルギーに感動させられたことでした。
何人かの現地の方に「死者の日とは?」「あなたにとって“死”とは?」とインタビューをして回りました。このことはまたまとめたいと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?