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秋田街道夜話【岩手の伝説⑫】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

※夜話・・・やわ。夜の余暇にする話。


秋田街道といえば、水沢を南北に通ずる往還(現在の国道四号線)を、

駒形神社あたりから右折して、板谷林(いたやりん?)、浅野、

広岡を経由、尼坂にある追分(指導標)を左に見ながら、

林福野(りんぶくの)を通って、供養塚の東端に入り、

あとは一直線に出店(でだな)、土橋(どばし)、愛宕、

市野々(いちのの)と、石淵からは山岳地帯に入って川を渡り、

山を登りして、十数時間で秋田に抜けるという道でありました。

※往還・・・おうかん。主要な道路。

※指導標・・・道路などに設置され、方角・地名・行程などを示す標識。


明治維新、秋田征伐に征く仙台藩の軍勢が往き来した頃の秋田街道は、未だ路傍に、石仏やもろもろの碑が立ってい、道のりを示す一里塚(七里塚ともいう)の古松が、美しい枝ぶりを道の面に横たえているなど、野趣の濃いものがありました。

※野趣・・・やしゅ。自然のおもむき。田舎らしい素朴な味わい。

かつては南部藩の殿様と仲の悪かった津軽の殿様が、南部藩の街道を避けてこの道を通ったともいわれているこの秋田街道も、今は昔日の俤もなく、一里塚と思われるものも、辛うじて認められるもの一ヶ所という憐れさであります。

※俤・・・おもかげ。面影と同じ。

「この辺に追分があったという記録があるのですが。」

こうした問いに対して部落の人の答えは、

「そういえば確かにあったような気もするが、区画の整理の時、埋めてしまったかな。」

こんな悲しい反響があるばかりになってしまいました。


したがって秋田街道の印象は、石淵あたりから奥を指すのが常識らしく、それから水沢までの街道は、歴史の本に僅かに跡をとどめるだけになってしまいそうです。

したがってこの物語は、市野々から山岳に入る所から、秋田に至る所に絞って話してみることにいたします。


おしゃべりはさておき、昔々、弘法大師が秋田と水沢との交流の必要を感じ、一夜にして開通したというのがこの秋田街道だと傳え(つたえ)られています。

ですから弘法大師にまつわる事物が相当聞かれます。


今は石淵ダムの湖底に沈んでしまって見るべくもありませんが、川のほとりに、「弘法の枕石」と呼ばれる岩がありました。

目方は何万貫もあったろうか、三畳を越す平らな大岩で、その端には、中の僅か凹んだ枕型の石が乗ってありました。

※貫・・・かん。重さの単位。1貫は3.75キロ。

高さも人間の腰の高さ位で、夏など河童連のいい甲羅の干し場になっていました。

秋田越えの弘法大師が疲れを癒すために憩った岩だといわれていました。


また、今の隧道の左側、五、六間手前に、弘法大師のお姿を刻んだ岩が立っていました。

※隧道・・・ずいどう。トンネルのこと。

※間・・・けん。長さの単位。1間は約1.82メートル。

そのところから奥に行くと、野坊主(のぼうず?)という萱森に出ます。

※萱・・・かや。屋根をふくのに使う植物。

さらに歩を進めて、アドレ坂を通るとすぐ、マダ木坂に出ます。

その坂の所に、非常に大きなマダの木があります。

※マダの木・・・オオバ菩提樹。マンダ、モマダ。

その木は、弘法大師が弁当に使って捨てた箸に、根が生えたものだといわれています。


いづれにしても秋田街道の開削は、弘法大師の予想通り、岩手、秋田の交流を盛んにしました。

※開削・・・かいさく。土地を切り開いて道路や運河などを通すこと。

海産物を背負って秋田側と取引をする人々が、毎日のように山を越えて行きました。

そうした交流が血縁にも及ぶのは当然ということになります。

市野々や谷木沢(やぎさわ?)、蜂谷、下嵐江(しもおろしえ)を尋ねると、祖々母か祖母が秋田であったという人に出会うことがあります。


秋田にもそういう事態にあうことがあります。

古いことを調査するつもりで伺った旧家の主人が、私の祖々父が岩手の市野々の人であったと、懐かしそうに目を細めながら、あの家もあの家もと、そこここの家を指さしながら話すのでありました。


昔々、岩手の若者と秋田の娘が、雪多い山岳を越えて結ばれた恋の血のたぎりを想うのも、微笑ましいことではないでしょうか。

しかし秋田街道は、必ずしも恋のとりなしばかりやっていた訳ではありませんでしたし、或る時代には長い断絶の時代がありました。


それは慶応四年の秋田征伐の時でありました。

仙台藩の多くの軍兵が、秋田攻撃に先立って隊勢を整えるため、市野々や下嵐江に分宿したことがありました。

そしてひたすら進撃の命を待っているのでありました。

勿論、中山あたりまでは尖兵を出しておりましたし、斥候も始終出して警戒を怠りませんでした。

※尖兵・・・せんぺい。軍隊の行動中、本隊の前方にあって警戒・偵察の任に当たる小部隊。

※斥候・・・せっこう。敵の状況や地形などを探ること。また、そのために部隊から派遣する少数の兵士。


或る夜、斥候の一人が、谷間の細道を下りてくる松明の灯を発見いたしました。

最初一つと思ったのが二つに増え、三つ四つとなり、あっと思う間に数え切れないほど沢山になってしまいました。

それが静かにこちらの方に移動してくるのです。

斥候はてっきり秋田藩の軍兵だと思い込んでしまいました。

斥候は相手に知らせ、相手がまた相手に知らせで、尖兵隊は大混乱となりました。

大筒(大砲)も何もほったらかして逃げてしまいました。

そして命からがら本隊に逃げ帰って報告いたしましたので、本隊も直ちに臨戦態勢を整えましたが、いくら経っても秋田兵の攻撃がないので、斥候を放って様子を探らせてみましたが、鼠一匹出てこない静けさでした。

そこで初めて、狐に化かされたのだということが分かりました。


実は前日、長い待機に退屈した尖兵隊の兵隊達は、若さの元気もあって、近くの狐穴に石などを投げ込んだりしてイタズラをしたのでした。

その狐穴というのは、市野々や下嵐江の人達から、アマ沼のコンコツ坊といって、敬遠されている場所でありました。

なんでも相当年数を経た老狐が、総帥となって、何百とない狐を引き連れているというのでありました。


それがきっかけで進軍と決まりました。

市野々や下嵐江の人達は、街道を知っているからと、案内役や荷運びの人夫に雇われました。

一寸気の利いた者は、斥候を言いつかりました。

最初人々は、狐の報復を思って尻ごみをしましたが、高額の賃金に喜んで雇われて働きました。

しかし雇われ者はやっぱり雇われ者で、忠実に命令を守った訳ではありませんでした。

命令の目的地には行かず途中から帰ってきて、いい加減復命をしていたものでした。

※復命・・・ふくめい。命令に従ってした事の経過・結果を命令者に報告すること。

それでも秋田の神宮寺川の戦までは勝ち戦でありました。

案内役の下嵐江の人達は、行く先々人家に火を放ちました。

一関の兵隊はどこまで進撃した、吉岡の兵隊はどこまで進撃したとのノロシのためでありました。

そうした勝ち戦も、神宮寺川の戦を最後に旗色が悪くなりました。

戦線が伸び、兵糧が続かなくなったからでした。

これでは駄目だと退却しようとした時は、神宮寺川の橋は落とされていました。

軍兵はほとんどが全滅し、残った者も散々な目にあって、秋田街道を今度はみじめな姿で帰るのでありました。

ことに酷かったのは雇われた下嵐江の人々でした。

亀太郎という人など、口いっぱいに煙草を入れられ、火を付けられるという拷問をされました。

「あいつらを八つ裂きにする。」

という秋田の人達の怨恨の声が、下嵐江や市野々の旅人によってもたらされました。

下嵐江や市野々の人々は、しばらく外に出なかったということでした。


天明の飢饉といえば、歴史に残る大飢饉でありました。

※天明の飢饉・・・てんめいのききん。江戸時代の三大飢饉。天候不順や噴火による、全国的な大凶作が原因。陸奥、奥羽地域が特に酷かった。草木や人肉まで食べる惨状だった。

作物が少しも収穫のない年が四年間も続いたというのですから、想像がつきます。

米麦一粒もなくなった農民は、草木の葉まで食い尽くしたといわれています。

藁餅をこしらえて食ったというのもその頃で、田一反歩に換えた米一升を、家族六人が一ヶ月にのばした等、悲惨の極みという他ありませんでした。

※田んぼ一反を売って米一升を買い、一ヶ月かけて食べた?

しかしそれでも餓死者を救うことはできませんでした。

骨と皮ばかりになった人が、累々と路傍に倒れていたといいます。

※累々・・・るいるい。積み重なっているさま。


「秋田には沢山食い物がある。」

その頃そんな噂が立っていました。

飢餓に自省を失った人々は夢遊病者のように、食物を求めて秋田街道を上りました。

健康な人でもこの山越えは容易ではありません。

ましてや餓死一歩手前の骨と皮ばかりの人々でした。

彼らは折り重なるように倒れました。

死骸は谷をうずめました。

後から上ってきた人も、先々上って倒れたその死骸の上に倒れてしまいました。

死骸は秋田街道に沿ってどこまでも続いていました。

やがて冬が来ました。

雪は毎日降ってその死骸を埋めました。

それでもその死骸はじっと静かにしていました。

里では、秋田に食い物を求めに行った父親の帰りを待っておりました。

秋田街道にも春が訪れました。

谷や沢は融ける雪水で高い音を上げるようになりました。

死骸はその都度、下へ下へと少しずつ移動して、やがて胆沢川の濁流へと押し流されてゆきました。

下流の方では、「アラ、また。」と言いながら、流されていく死骸に掌を合わせるのでありました。


或る雪の激しく降る日、一人の人形使いが秋田へとこの街道を上っていきました。

天候が良くても容易でないこの秋田街道を、まるで死地に赴くようなものでありました。

しかしこれには訳がありました。

実はこの人形使いは、麓あたりで一泊するつもりで一軒の家を叩きましたが、その家の主人から、秋田はあの山一つ越えればすぐだと教えられ、出掛けてきたのでした。

一軒家の主人には悪いたくらみがありました。

かすかに覗いた人形使いの懐中には、相当額の金が入っていたのを見て取ったのでした。

雪の山中に迷わせて殺し、その金を奪うつもりでした。

一軒家の主人の想像通り、人形使いは雪中の山に迷い込んでしまいました。

来るのでなかったと、今さら悔いましたが、さりとで帰るもできず困り果ててしまいました。

その所へ、麓の一軒家の主人が駈けつけてくれました。

助かる!!と人形使いは思わず歓喜の声を上げました。

しかし傍に寄った一軒家の主人は助けるどころか、持っていた太い棒を高くかざすと一撃、人形使いを殺してしまいました。

そして急いで懐中から金包(かねづつみ)を奪うと、人形使いを下を流れる川をめがけて断崖から蹴落としてしまいました。

落ちる時、人形使いの背負っていた包が解けて、人形がばらばらと散りました。

それが川岸の岩の上に立って、魂のある如く踊っていました。

それ以来その家の人が不思議な病気に侵されるようになりました。

それが絶ゆることなく何代も何代も続くのでした。

「あの人形使いの祟りだ。」

と気の付いたその家の人は、その場所に地蔵様の供養塔を建て、祀りました。

病気はその家から去ったらしく、病人が出なくなりました。

秋田街道から少しそれた山の中に、今でもその供養塔が見られるということです。


六月の声を聞いて間のない頃でありました。

この秋田街道の入口からやや離れた麓の家に、夜遅く宿をとった子供連れの若い男女がありました。

男は、未だ前髪を取らない小姓風の男でした。

※小姓・・・こしょう。武士の職の一つで、武将の身辺に仕え、諸々の雑用を請け負う。江戸時代の小姓は、元服した大人で優秀な人材が着任した。前髪を取らないのは元服が終わっていない少年ということ。

女は御殿風の束髪に結った、男よりは二、三年上ではないかと思われる婦人でした。

※御殿・・・ごてん。おそらく御殿女中のようだということ。御殿女中とは、江戸時代、宮中・将軍家・大名などの奥向きに仕えた女中。(妻子が住む奥に仕える職)

宿のものに案内された奥の間に引っ込んで、夜遅くまでひそひそ語りをしていました。

男の話では秋田に行くと言っていましたが、六月といっても残雪の多いこの秋田街道は、婦人同行には危険でもあるので、宿の者が極力その無謀をいさめてみましたが、男は笑ってそれを受け付けませんでした。

夜の明けるのを待って、男女は宿を出立(しゅったつ)いたしました。

不審に思った宿の者は、ひそかにその後を追いかけました。

残雪が多いといっても六月、暖かい春風が雪の上を吹いて、首筋のあたりに薄い汗がわくほどでありました。

所々には、遅い春をかこって山桜がもう、一輪一輪小さな花をつけていました。

山坂にかかると、女は疲れをあらわにしてきました。

男はそれを労わるように、傍に寄って何かつぶやくのでありました。

そして折々、脅えた目を見開いて、今来た方を見つめるのでした。

その眼の光は、追われる者にみられる恐怖の翳(かげ)が宿っていました。

二人はそこまで来ると、当然左に折れるべきなのに、残雪の多い右に曲がりました。

後を追ってきた宿の者はふと、不安と不吉な予感を感じました。

難儀な道を一刻も歩いた男女は、胆沢川の流れにそそり立つ断崖の上に出ました。

すると女は背負ってきた子供を雪の上におろすと、道中よくよく考えてきたらしく、何のためらいもなく、谷に向って子供を突き落とすと、男女二人は手を取り合って谷に飛び込みました。

追ってきた宿の者は、声をかける間のない瞬間の出来事でありました。

勿論、覗いてみても子供も男女二人の姿もありませんでした。

ただ吹き上げてくる川風に乗って、かすかに子供の泣き声が聞こえてくるだけでした。


数日後、件の宿屋に武士らしい三人連れが訪れました。

三人の武士は、子供連れの若い男女を探しているのでした。

その三人連れの武士の言うことによれば、男はさる殿様の小姓で、女は殿様の愛妾でした。

※愛妾・・・あいしょう。気に入りのめかけ。愛人。

二人は人の目を盗んで道ならぬ恋にふけっておりました。

それが発見され、危うく打ち首を逃れて、この秋田街道の山中に、どうせ逃れ得ぬ身を果てたのでありました。


その後いつまでもその谷間を中心に、人々の魂を揺すぶるような悲しい泣き声が聞かれ、それがあの谷に投げられた子供の泣き声に似ているような気がしてなりませんでした。

そしていつ知らず、地獄鳥という名を付けてしまいました。

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