俳句編10 夏の季語「夏安吾(げあんご)」 【慶應義塾中等部対策講座】
「夏安居」は夏の季語です。
仏教が生まれたインドでは、夏の期間(4月15日から7月15日までの約3ヶ月)が雨季となるため、僧たちは、托鉢行脚をやめて寺院の中で座禅修学をしていました。
その修行スタイルは、雨季の有無とは関係なく、仏教の伝播と共に広まりました。
「安吾」とは元々、梵語(=サンスクリット語)という仏典で使われていた言語で、「雨期」を意味する言葉です。
夏の期間は、生きものが生まれ成長する時です。
「毛虫一匹にも仏性あり」とする仏教では、「生きものを殺してはならぬ」とする「殺生戒」と言う戒律があります。
そのため、僧侶たちは、「虫一匹でも踏み殺してはならない」とするお釈迦様の教えを守り、部屋の中で経典を唱えたり、座禅を組んだりして修行するのです。
この習慣は、仏教が日本に伝来したことで、まず宮中に始まり、一般の仏教を信奉する家々に広まったそうです。
安吾の期間は「前安吾」「中安吾」「後安吾」の3つに分けられます。
そして、安吾に入ることを「結夏」、安吾の終了を「解夏」と言うそうです。(『俳句歳時記 夏』 角川ソフィア文庫)
「解夏」という言葉は、さだまさしさんの原作小説のタイトルとしても有名になりました。
「解夏」とは、7月15日にあたります。それは、一つの夏の終わりと言ってもよいでしょう。
これは、芭蕉が日光の滝を訪ねた時、この旅自体を僧が修行する夏安居と見なし、今の自分をその出発点にいるとしたもののようです。
「夏書き」とは、夏安吾の折に経文を写経することです。
これは美濃派の俳人が亡くなった後、十七回忌の追善句として読まれました。
「夏花」とは、仏に供える花または樒の花のことを言います。
これらの言葉は、江戸時代の戯作文学にも、当たり前のように登場してきます。
近松の『心中天網島』では「一夏に一部夏書せした慈大悲の普門品」として、西鶴は「夏花に籠山の梢をもとめ」というように、いくつもの例を見ることができます。
言葉というものは、新しければ良いというものではありません。
今、使っているから良いと言うわけではないのです。
言葉には、その言葉が独自にもっている世界観と言うものがあります。
今でも古典として残っているものは、その言葉が持っている世界観を、文化や伝統として、人々が残したいと思うから残っているのです。
一人の人間がいくら良いと思ったとしても、多くの賛同が得られない限り、その言葉は、発した瞬間に消えてしまうでしょう。
現在でも「季語」として使われる言葉は、長い年月の間、そのような厳しい自然淘汰を経て残ってきたものです。
季語の知識があれば、その言葉が持つ世界観を、一瞬で共有することができるでしょう。
「言葉」即ち「文化」なのです。
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