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プラトンの哲人政治 「自己内部の国制について」

プラトンは、自己内部の支配権が『神的なもの』か、『獣的なもの』かを問題にします。
「これは自己の内なる国家体制のあり方なのだ」と彼は言います。
この考え方は、哲人政治の理念の中核をなすものと言えるでしょう。

『神的なもの』とはどういったものでしょうか。
それは「節制」「正義」「気概」「思慮(知)」といった徳を表すものです。
それと比較して、欲望のままに、節制も無く、正義も無く、気概も無く、思慮の無いものが『獣的なもの』と言えるでしょう。

哲学という、魂にそなわる知への希求に―― 魂が神的で不死で永遠なる存在と同族であるみずからの本性にうながされて、何を把握し、どのような交わりに憧れるかを、われわれは注視しなければならない。

プラトン著『国家』藤沢 令夫訳(岩波文庫)P.349

これは「哲学とは、魂にそなわる知への永遠なる希求」と言い換えることができるでしょう。
哲学者が国制を担うことが、哲人政治が想定する理想像です。
いやしくも民衆や人民を支配し統治する者は、「自己内部の支配者(統治者)が神なるものであることを要求する」のが哲人政治の理想です。
そこでは、知への希求=ソクラテスが言うところの『愛知者』であることが原点となります。
獣的なもの(=欲望)に支配された為政者は、自己内部の支配権が神的なものではないため、国民や人民を支配し統治する時も、獣的な欲望のままに暴力的な政治をすることになるでしょう。
プラトンは、このような傾向に陥りやすい政治体制の例として、「寡頭制」や「僭主独裁制」をあげています。
それと比較して、理想的な国家のあり方を「優秀者支配制」と定義しています。

哲学者は神的にして秩序あるものと共に生きるのであるから、人間に可能な限り神的で秩序ある人となる。

プラトン著『国家』藤沢 令夫訳(岩波文庫)P.60

自分自身を秩序あるものとできない限り、国家を秩序あるものにできるはずもありません。自身が無統制で自堕落なことを棚に上げたまま、国家統治などできる訳がないからです。

プラトンは、中でも「節制」という徳を重視しています。

まやかしの言論というものは、
〈慎み〉を「お人好しの愚かさ」と名づけ、
〈節制〉の徳を「勇気のなさ」と呼んで、辱しめを与えて追放する。

〈傲慢〉を「育ちのよさ」と呼び、
〈無統制〉を「自由」と呼び、
〈浪費〉を「度量の大きさ」と呼び、
〈無恥〉を「勇敢」と呼んで、それぞれを美名のもとにほめ讃える。

プラトン著『国家』藤沢 令夫訳(岩波文庫)P.213

これを見ると、プラトンの時代から、さまざまな美辞麗句を駆使して、政治的なプロパガンダが行われていたことがわかります。
こと政治に関して言えば、「言葉」というものがいかに信用できないものであるか知ることができるでしょう。
古代中国の思想家である老子は、「信言は美ならず、美言は信ならず」という言葉を残しています。美しい言葉は信用できないのです。
リヤ王は、邪心を秘めた娘の美言を信じてしまったことで、国を失い荒野を放浪するような境遇となりました。

真実は言葉にあるわけではなく、その人の人間性や精神性にこそあるものであるということを、今一度、肝に銘じるべきでしょう。



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