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治者たるにふさわしい教育(ソクラテスの教育法)  【クセノフォーン著「ソークラテースの思い出」】

国家のためにつくさんとして、刻苦精励する人が自分に満足し、他人からは賞讃を受け、羨望の的となりながら、心楽しい生涯を送るのだ。
すぐれた人々の言うごとく、堅忍不抜の勉励こそ、善美の行為に到達せしめるのである。

クセノフォーン著『ソークラテースの思い出』佐々木理訳・岩波文庫P.71

これは、ソクラテスの言葉です。
この発言で注目すべきは、「刻苦勉励」「堅忍不抜」という部分でしょう。
それは、苦しみのレベルまで励み努め、忍耐力を堅固にし、初心を変えずに貫くことを意味しています。
どのようなことでも、「苦しみ」の域まで達していないと、努力したことにはならないと言っているのです。
ソクラテスは、国家を治める為政者というものは、衣食住の快楽に安住してはならないと主張します。

喜んで飢える者は食べようと思えば、いつでも食べられ、喜んで渇する者は、いつでも飲むことができる。
喜んで難儀する者は、良い希望のあるために労働が楽しい。
たとえば猟人は、獲物をとらえる希望のために気分よく苦労する。

クセノフォーン著『ソークラテースの思い出』佐々木理訳・岩波文庫P.71

この主張が、後に「満足した豚であるより、飢えたソクラテスであれ」というJ・S・ミルの言葉につながるのかもしれません。

ソクラテスの主張に対して、弟子のアリスティッポスが反論します。

私は決して自分を治者たらんとする者の部類に入れません。
だって、自分の要求を充たすだけでも大変なのに、それで足りないで、他の市民たちの要求まで充たしてやる仕事を背負いこむなどとは馬鹿のすることですもの。

クセノフォーン著『ソークラテースの思い出』佐々木理訳・岩波文庫

その反論を聞いて、ソクラテスは警告します。

人の世に住んでいる以上、もし君が治めることも治められることも好まず、また為政者に仕えることもいやだというなら、君は見るであろうと思う、いかに強者は弱い者をおおやけならびに私の生活において泣かせ、奴隷同様に扱う術を心得ているかということを。

クセノフォーン著『ソークラテースの思い出』佐々木理訳・岩波文庫

いつの時代でも、「弱肉強食」は世の習いです。
政治の世界でも、ビジネスの世界でも、市民生活においても、それは変わりません。
同じ苦労をするのであれば、たとえどのような世界にいたとしても、ソクラテスが言うように「治者として刻苦精励し堅忍不抜の勉励」を実行する位の気概をもつべきでしょう。
治者のごとく、世のため人のために利他的な実践行動に生きる人生の方が、利己的に小市民のような人生を送るよりも、自分自身が満足し、他人からも賞讃を受けるような羨望の的になることができるでしょう。
これこそが、心豊かな生涯と言えるのかもしれません。

ケネディ大統領は、「国に対して何かしてもらうことを考えるよりも、国に対して何ができるかを考えてほしい」という演説をしました。
イギリスの上流階級では、子供の頃から、パブリックスクールで、「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」の精神を叩き込まれると言います。
これは、「高貴な者ほど、社会や国家に対する義務と奉仕が求められる」ことを意味しています。
自分のためだけに生きるのではなく、他者のためにも生きることこそが、高貴な精神性であり、尊い人間性と言えるでしょう。
教育の原点は、ここにあるのです。



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