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不登校体験談 小学校時代のトラウマ②

私に異変が起きたのは、5年の1学期のことでした。
2年の時に受けた暴言・暴力の夢を繰り返し見るようになり、昼間起きている時にも、ボーッとした瞬間にそのことが蘇って思わず声を出してしまうことや涙が止まらないことがたびたび起こるようになりました。

なぜ5年になってからだったのか。5年になって、日々ストレスを感じるような生活に急に変わってしまったことが大きかったのではないかと思います。
5年進級時にクラス替えがあってから、教科書を捨てられたり体操服をハサミで切り抜かれたりするようなことがたびたびあったこと、行き始めた進学塾で体罰を見かけるようになったこと、それから、年齢的に少し人の目が気になるようになったことの影響は大きかったかもしれません。
また、親の仕事上のトラブルで週に何度も脅迫電話がかかってきていて、友人と歩いて登下校する生活もできなくなり、今思えばこのことでもかなりメンタルが揺さぶられました。

当時はこの現象が何なのか、ひとつもわからないまま、ただただ苦しんでいました。
次第に、夢や妄想の中の私は暴力や暴言で反撃するようになりました。布団を殴って目が覚める、叫んで目が覚める、日中にカーテンに掴みかかってハッとすることも。
6年の時に、一度クラスメートに掴みかかって怒鳴ったことがありました。この時点では、これまでと違う自分に何となく違和感を持つことができていましたが、中学になると怒りのコントロールが急激にできなくなってきて、強い口調で罵倒して相手の心を傷つけたことが、何度もあります。それは口喧嘩のレベルをはるかにこえていましたが、その頃はもう自分の変調に悩む余裕すらなくなっていました。
髪の毛や眉毛、まつ毛などを抜く癖なども5年の頃から出てきていましたが、当時は、それがストレスによるものだという認識はありませんでした。
抜毛は10代のうちにおさまりましたが、悪夢の方は、学校というものから離れて頻度は減ったものの、20代になっても続きました。

親に小学校でのことを初めて話せたのは17歳の時。不登校を経て高校を退学、家出までして戻ってからのことです。
母は、低学年の時に腹痛を訴えていたことは憶えていて「まさかそんなことをされているとは思わなかった。気付いてあげられなくてごめん。辛かったね」と泣いて私を抱き締めました。

私が通院を始めたのは、中3になって眠れなくなってからのことだったので、主治医は、不登校に至ったと思われる比較的最近の出来事、友人、親との関係などを中心に聞き取ろうとしてくれていたように思います。そして、10代の私は、昔の話をすることを無意識に避けていたのかもしれません。小学校のことまで遡って話をする機会はありませんでした。
中3の私に、当たり障りのない病名を伝えたものの、いつも「うーん、何かなぁ」と何か腑に落ちない様子だった主治医が病の本丸に気付いたのは、大学2年の時。「小さい頃に暴力を受けたのではないか」と聞かれました。何がヒントになったのかはよくわかりません。私にとっては急な展開でした。
私の話を聞いて、主治医は催眠療法を提案しました。「やれば楽になるのでやったらいいと思うが、鮮明に思い出すので、一週間ほどはものすごく気持ちが落ち込む。大事な予定のない時に、覚悟ができたらおいで」という話でしたが、いつも帰省は長くても一週間。わざわざ鬱状態になるために帰省して、いつも以上に長い期間を地元で過ごすとなると、調子が乱れて大阪に戻れなくなるような気がしました。

私はこの覚悟ができないまま大学を卒業し、いつの間にか病院に行くタイミングをなくしていました。
少しずつ自分への理解も進み、年々精神的に落ち着いていって、寝込むような体調不良もほぼなくなって、家族も安堵していました。

ところが、長女がまだ2歳前後だったある日のこと、歩き回って食事が進まない長女に苛立っているうちに小学校の出来事が蘇り、怒りと悲しみが混ざり合いぐちゃぐちゃになって仕事に行けない状態になりました。
思い返せば、6年生の頃も、17歳の頃も、28歳の頃も、殺意に近いほどの強い気持ちで「絶対に教師を辞めさせてやる」と思っていて、小学校卒業後、毎春異動をチェックしていました。
体罰の話を聞くようなことがあると、体が熱くなり、涙が止まらなくなったり、呼吸が苦しくなったり、寝込むほど気持ちが落ち込んだりすることもありました。
放課後の学習支援で小学校に行っていた頃にも、黒板、教卓、並んだ机や椅子、どこにでもある学校の光景、音、匂いに気持ちが重たくなる瞬間があって、何故だったのかと考えたら、やはりあの出来事に行き着きます。まだ全然、大丈夫ではなかったのです。

仕事に行けなくなった時の話に戻ります。
後日、あまりにも苦しすぎて職場の主要な立場の人たちに対して初めてこの話をしました。
その時に聞いてくれていた、とても真面目で丁寧な退職教員の方が、催眠療法を受けることを一旦は勧めてくださったのですが、翌日になって「やっぱり気になって一晩考えたけれど、違うと思った。敢えて言います。もう忘れなさい」と言われました。
その瞬間、ずっと煮えたっていたものが、すべて蒸発したように消えた気がしています。

カウンセリングとしては「忘れなさい」という言葉は、適切ではないそうです。
過去に似たような言葉は言われています。「そんなこと、よくあることやしもう忘れたら?」「いつまでも考えても何にもならんやろう」。正論かもしれない。でも、忘れたらいいと言われるたびにますます傷は深くなっていました。
「憎むより許すほうが楽」とかいう言葉も、何度も自分の中でリピートさせてきたけれど、どうしてもこのことだけはそれでも難しかったのです。

しかし、この時にかけてもらった「忘れなさい」は、私にとっては、忘れることを勧めるこれまでのアドバイスとは明らかに違いました。私のことを考えて悩んで精一杯寄り添ってもらえたことが私にはじゅうぶん伝わったので、それで初めて怒りがスッとなくなったのだと思います。
私はこの時、暴力・暴言を受けた時からもう20年以上が経っていました。
私の中では、半分くらいは時間が解決してくれたという感覚です。そして、もう半分は、家族や身近な人に否定されなかった、聴いてもらえた経験の積み重ね。
これ以前にも、何人かの人に丁寧に受け止めてもらえた経験は既にあったので、そんなベースがあって、この先生の言葉が最後のひと押しとなって、奇跡的に私の心に効いたのだと思っています。
(ミリ単位のタイミングもあるように思いますし、悩んでいる方がその時どう受け取るかというのは、本当にわからないので、同じ言葉がけでうまくいくとは全く思えません。身近な方がこのようなことで悩まれている場合は、必ず医師に相談してください。)

忘れると言っても記憶を消すことは困難なので、今でもこのように色んな瞬間を憶えています。そして日常のふとした時に、当時の光景が再生されそうになることはあります。でもそんな時、頭の中から映像を振り落として、今現在のことを考えることができるようになりました。

③に続きます。次回は、昨年シンポの質疑応答でじゅうぶんに答えられなかったことも含めて、書きたいと思っています。

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