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何者にもなれない僕らへ

劣等感を刺激してくる人間からは距離を取れよ

自意識とプライド、自己否定と自己愛の狭間に立って、僕らは息も絶え絶えになりながら生存している。周りと自分を比べ、自分の劣等感を隠すように他者を見下し、自分を肯定するために他者を否定する。

とくに、平成後期から令和にかけて、そういう苦しみを抱えた若者が増えた気がする。インフルエンサーやら、何の事業で会社を興したのかも分からない芸人みたいな社長やらが、とかく若者の無力感を煽っては「特別になること」「優れること」の魅力を語る。毎月カツカツの給与で暮らす彼ら彼女らの自意識を食い物にするために。

そんな仕事で私腹を肥やす人間がインフルエンスするものなんて、たかが知れているというのに。それでもなお彼ら彼女らは、どこかで落っことしてきた自信を買い戻すかのように、オンラインサロンに入会したり、食い入るようにスマホを眺めたりしている。本当に自分のことを大切に思ってくれている誰かにも、気づかないフリをして。

劣等感を刺激された人間は、本当に、死ぬほど操りやすい。怒らせることも悲しませることも、喜ばせることも簡単だ。だから、自分の劣等感は自分で守れよ。誰かに見せびらかしたり、安売りしたりするなよ。恥ずかしくても辛くても、自分の劣等感は自分で抱えて、簡単に消そうとなんてするなよ。

一生付き合う覚悟で、何かが足りないダサい自分ごと抱きしめて、悪辣な言葉からは距離を取れよ。弱さにつけこんで、あなたがあなたでなくなることを願うすべての存在に、中指を立ててやれよ。

「特別」のメッキが剥がれてからが勝負だろ

僕らは何者かになろうとしていたのだろう。
小学生の頃は足が速い誰かに憧れた。中学生の頃は腕っぷしが強いあいつに。服がオシャレなあいつに。身の丈に合わないブランド品を持ったあいつや、顔が綺麗なあの子に。やたらと羽振りがいいあいつに。
僕らはあいつやあの子に「特別」を重ねた。

特別だと思っていたあいつやあの子は、大人になるにつれ、いなくなっていった。いや、あいつやあの子は変わらない名前で、少し垢抜けた表情で、今も生きているはずなのに、どうしても記憶の中にいるあいつやあの子と重ならない。いなくなったのは、あいつやあの子ではなく、あいつやあの子がいつも漂わせていた「特別」そのものだった。

僕らは大人になるにつれ、特別を失っていく。特別な存在だった彼も彼女も、どこにでもいる普通の大人の仲間入りをする。きっと、僕も。傍から見れば、何の変哲もないおっさんの一人だ。

何者かになろうとしていた。雪が降る田舎町で、言葉にはしなくとも、僕はずっと夢を見ていた。自分だけは特別な存在で、この田舎町は僕には狭すぎて、周りの人間は頭が悪すぎる。おかしいのは僕じゃなくてこの世界だから、僕がこの世界を変えてやるのだ、と。

そうして、特別な存在に、何者かになるはずだった。15歳の時に考えた穴だらけの人生設計をなぞれなかった僕は、小説家にも、大社長にも、世界征服を企む悪の頭領にもなれないまま、平々凡々に世界を眺めて生きている。

でも、きっとこれは諦めじゃない。諦めにしては、心が穏やかすぎる。
特別への憧れをなくしたわけじゃない。けれど、昔ほどの渇望はない。
認められたくないわけじゃない。認められたい相手が見つかっただけ。
熱が冷めたわけじゃない。現実と向き合い、一歩ずつ進んでいるだけ。

大切なものを大切にしながら、自分の心を守りながら、欲しいものをぶんどりに行く。失いたくないものを失わないようにしながら、誰よりかっこいい生き様を刻む。両立しえないはずのものを両立する。それが僕の選んだ、たった一つの冴えたやり方だった。

なめんなよ、という話

10年以上会っていない元同級生がいる。彼は友人の友人だから、僕は元同級生の近況を、友人経由で聞かされていた。

彼はオシャレで顔が良かった。実家も太く、私大へ進んだあとは海外留学のために留年したり、自分を探すために卒業後に空白期間を設けたりと、悠々自適にも見える人生を送っていた。バイト漬けで極貧だった僕とは対照的過ぎて、何から何まで僕の正反対に位置する人間だと思っている。

そんな彼は、今年ようやく就職して、そして最近退職したらしかった。職を失った彼は知人に説教を食らい、その場で激昂したそうだ。その話を聞いた僕の友人は、彼を僕の会社へ誘ったらしい。その時、彼はこう言ったそうだ。

「お前と、小野澤の下になるんでしょ、ちょっと考えるわ」

いったい何を考えたら、どんな答えがでるのだろう。
彼が考えようとしている問いはなんだろう。
「プライドを捨てて友人と小野澤の下につくか」だろうか。
ふざけるな。

いつまでも自分が特別でありたい。見下している人間を、見下し続けたい。見上げられ続けたい。劣等感を感じたくない。
それらは人間として当たり前の心理だ。僕だってそう思う。弱者であることを強いられたからといって、弱者然として生きることはできない。特別な存在だと自覚していたい。だから、高くなったこのプライドの分だけ、自分に課す荷重も大きい。叱咤しすぎて立ち直れないほど、自分で自分を痛めつけている。

そんな僕から見れば、件の彼のことなんて、こっちからお断りなのだ。仕事内容や会社の規模で見下されるのなら、まだいい。けれど、僕のことを知りもしない人間に一方的に見下され、あまつさえ「プライドを捨てて働いてやってもいいか否か」を考えられているだなんて思うと、虫唾が走る。

子どもの妄想に付き合っていられるほど、僕は大人じゃない。相手にしている暇がない。現実に必死に食らいつきながら、視線を前に向け続けることは、そもそも生存に向いていない僕にとって楽な作業じゃない。

だからさ、なめんなよ。

特別になりたいならなればいいじゃない

「特別っぽいもの」が、YouTubeやTikTok、Twitterをも埋め尽くす昨今。本当の特別を見つけたり、手に入れたりするのは困難を極める。だというのに、特別っぽいものが僕らを煽るから、焦りは増す一方だ。

じゃあ、もっと焦ってみればいい。周りにいる、本当に自分を大切に思ってくれる人や、特別だと思ってくれる人を振り切ってでも、その衝動の赴くままに駆け抜けてみればいい。自分がどこまでやれるのか、試してみればいい。

その程度のこともできないで、特別感だけ手に入れようだなんて、世間が許しても真理が許さない。錬金術師だって等価交換の法則に従っているのに、何も差し出さずに何者かになりたいだなんて、甘すぎる。

決断を迫られることばかりだ。特別へ至るための孤独な道をひた走るのか、大切な存在や景色と共にゆっくり歩を進めるのか。
何者にもなれない僕らは、今、選択を迫られている。
誰にも特別を与えてもらえない、社会という荒野に立った今、「君はどう生きるのか」と。

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