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【noteの書き方2.0?①】「意味があると思っている内側」と「意味がないと思っている外側」のフレームのないフレームワーク
最近この思考パターン(?)が、自分の中で流行っていて、何か汎用性があるような気がしてきたので、ちょっとまとめてみようと思います。
もしかしたら、あらゆる読書やnoteの記事が、このフレームがないフレームワークで、整理できるのかもしれない。
いや、さすがに大袈裟なんですが、読んでいなくても堂々と語るのがこのnoteのコンセプトですから、このフレームワークで「noteの書き方2.0」を語る(?)とでも言ってしまおうかと思います笑
すなわち
「意味があると思っている内側」
と
「意味がないと思っている外側」
という「フレームがないフレームワーク」です。
なぜ、「フレームがない」のかというと「意味があるもの」と「意味がないもの」の境目は「あいまい」だから。あいまい大好き人間。
これを文章の書き方に当てはめてみます。
とりあえず図で書いてみた
![](https://assets.st-note.com/img/1716814781620-SvNHEut9ay.png?width=1200)
すごい大胆なことを言ってしまうと、およそ文章は以下のように分類できるのではないかと思っています。
① 「意味がないと思っている外側」が、実は「意味があると思っている内側」だった。
② 「意味があると思っている内側」が、実は「意味がないと思っている外側」だった。
③ 「内側」と「外側」の境界線をはっきりさせて、「意味があると思っている内側」を際立たせる。
④ 「内側」と「外側」の境界線をあいまいにさせて、「意味があると思っている内側」を揺さぶらせる。
⑤ 「意味があると思っている内側」を語る。
⑥ 「意味がないと思っている外側」で遊ぶ。
「意味があると思っている内側」というのは、
大事なこと、重要なこと(と思っていること)。
例えば、最近は科学的な思考が流行っているし、コスパとか合理的な思考とかは内側に入ると思っている。
あるいは、資本主義社会において、お金のことはまあ大事だから、内側に入ることが多いと思っている。
ついでにあえて小林秀雄の言葉でいえば「常識」 ではないかと思っている。
一方「意味がないと思っている外側」というのは、
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆著)でいえば「ノイズ」、
『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(谷川 嘉浩著)でいえば「衝動」、
『センスの哲学』(千葉雅也著)でいえば、「リズム」
noteでいえば、例えば、
「なんのはなしですか」(コニシ木の子さん)
ではないかと思っている(先日もマガジン引用ありがとうございましたm(_ _)m)
ということで、文章におけるフレームのないフレームワークをやってみます。
気づき系(①外から中へ、②中から外へ)
そもそも「と思っている」などという面倒くさい言い方をわざわざ使ったのは、それが実際に「外」か「中」かを「留保」しているためです。
言い換えると①実は、外側を思っていたのが内側だった、または②実は、内側と思っていたのが外側だったとき、読み手には気づきが生まれるということ。
①は、いわゆる目からウロコ系。大事なことが意外なところにあると気づく。
②は、「それってあなたの感想ですよね?」系(ちょっと嫌な言い方?)。大事なことは実はそこではなかったと気づく。
この「外から中」or「中から外」の流れがあると、文章に動きが生まれ、興味深さになると思う。
この動きをどう作るかが、文章を書く時の一つの核になるような気がしている。
境界線をいじる系(③はっきりさせる、④あいまいにする)
境界線をいじるというのは、いわば、「分断」と「統合」、あるいは「分割」と「結合」です。
派生すると、「わかりやすさ」と「あいまいさ」、もしかしたら「自由」と「平等」、ひょっとしたら「相対主義」と「普遍主義」と言えるかもしれません(いや、言えないかもしれません)。
文章では、よく「分類」という作業がある。
あるいは、文章構成という作業がある。
しかし、文章を書くとき、実は、この前に無意識にやっている作業がある。
すなわち、文章を書くための分類作業の前に、書き手はそもそもこれを「分けるのか」「分けないのか」という問いを通過している。
ここに境界線をいじる妙味があるような気がする。
例えば、文章術について書くとして、「です・ます」調と「だ・である」調のどちらがいいか問題と、「漢字」と「ひらがな」どちらがいいか問題というのがある。
これを説明しようとするときに、この2つの問題を分けて説明するのか、それとも、分けないで「形式面」という言い方でひとまとめにして説明するのか、ということは考える余地がある。
まず「分ける」と分断が生じる。分断が生じると、普通は丁寧でわかりやすくなるが、その分冗長になり、読み手に予断を許さない強めの文章にかもしれない。
一方、「分けない」と統合が生じる。統合が生じると、区別はあいまいになり大雑把になるが、文章に解釈を許す寛容さが生まれるかもしれない。
境界線をはっきりさせると内と外の区別が明確になる。そうすると、内側が際立つ。読み手は内側に集中する。
逆に、境界線をあいまいにすると、内と外の区別が薄くなる。そうすると、内側はぼやける。読み手はもしかしたら、外側のほうにも目が向くかもしれない。
つまり、文章における意味のある・なしの境界線の使い方で、読み手の感じ方・印象をデザインできる。
このチューニングデザインに境界線をいじる妙味がある気がしている。
もうちょっとだけ言うと、同じ分割でも、意識して分けたのか、意識せず結果的に分かれたのかでも、読まれ方は変わってくると思う。
実は、本noteの記事には、「です・ます」調と、「だ・である」調が混在している。
それを聞くと、ちょっと読み方が変わってくるかも?
もっというと、本noteの記事は、見出しの冒頭の文だけ「です・ます」調で、それ以外が「だ・である」調で書かれている。
それを聞くと、またさらに読み方が変わってくるかも?
この「意味があると思っているもの」と「意味がないと思っているもの」をどう切り取って分けるのか、分けないのかという視点、うまみになるかもしれない。
長くなってしまったので、続き(⑤と⑥)はまた明日。
「意味があると思っている内側」と「意味がないと思っている外側」と「境界線」。すべてがあいまいなフレームがないフレームワークで、文章の書き方を少し深堀してみよう、そんな感じです。
そんなわけで、「今日一日を最高の一日に」
起床 5:25
(40日連続投稿!)
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