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「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」(三宅香帆著) 読書とは、比較に先立って価値を体験することなのかもしれない 


話題になっている「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」(三宅香帆著)を読んだ。

そして私は、昨日も触れたヒュームの一節を(また)思い出した。

われわれは、対象をそれらに実在する内在的な価値からよりも、むしろ比較から判断する。そして、何かと比較対照することで、それらの対象の値打ちを高められない場合には、対象の中にある本質的に良いものさえも見落としてしまう傾向がわれわれにはある。

「所有論」鷲田清一著.講談社より


なぜか。またかよ。

今日はこの記憶を、記録にしておこうと思う。

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」


 本書は、労働史と読書史を結びつけながら、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問いを紐解いていく。

 正直、あっと驚く結論とか文学的な名文があるわけではないと思う(失礼)。
 けれども、タイトルからイメージされるターゲットがあって、そのニーズに応える文体、文量、テンポ、緩急があって、それらががっちり結びついていることがすごい。読後の気持ちよさはここに繋がっていると思う。さらっとこういう文章が書ける人は本当に尊敬する。

 著者は、情報と知識を区別し、

情報=    知りたいこと
知識=ノイズ+知りたいこと

ノイズ=他者の歴史や社会の文脈

 と整理する。


 そして、
「読書」は、偶然性に満ちたノイズ込みの知を得ること
「情報」は、ノイズ抜きの知を得ること
 と整理する。

 そのうえで、そのノイズを受け入れる余裕がないことが、「働いていると本が読めなくなる」原因だと結論づけている。

 それは、とても納得ができた。
 余裕がなければノイズは受け入れられない。


労働する人は、常に何かと比較することで価値を判断している


 では、なぜヒュームの一節を思い出したのか。

 それは、つい先日その一節を別の本で読んだばかりで自分の記憶に新しいからである。
 が、あえてもっというと、本書を読んで、明治から現代まで、労働する人は常に何かと比較することで価値を判断していると思ったからだ。

 本書では、明治から現代まで、労働する人とその時々の読書の傾向やベストセラーのことが書かれている。
 明治~大正では、青年達が立身出世のために修養し、戦前~戦後では、新中産階級がエリートに追いつくために教養を身につけようし、高度経済成長期では、コミュ力をつけ、会社で成功するために本を読み、現代は自己実現のために、読書はノイズとなり、情報収集に特化するようになった。

 共通することは、いずれも、労働する人は、成功のために常に何かと比較をしているということ。

 自分に役に立つ情報を得たくなるのは、周りの何かと比較して自分も成功したい、出世したい、だから役立つ情報が欲しいと思っているからなのかもしれない。

 しかし、この発想は、悲しい偏りを生む。例えば、誇りと卑下について。

 例えば、他人の苦は、それ自体では苦痛である。
 しかし、われわれ自身と比較して考えた場合、他人の苦痛はわれわれ自身の幸福を増し、そして、かえってわれわれに快を与える。

 あるいは、妬みにおいては、自分自身を劣った者と比較する人は、この比較から快を受ける。
 そして、この劣っている人が上昇して、優劣の差が減少すると、快の減少にとどまらず、それ以前の状態とまた新たに比較をしてしまって、本当に苦になる。

 悲しい人間の性である。

 比較が、文脈依存的にではなく、まさに自/他の比較というかたち、さらにいえば自/他の関係の勾配への過敏なまでの執着というかたちでなされるとき、わたしたちのまなざしは自他がせめぎ合う一種の磁圏のなかで湾曲してしまう。そこでは偏った自己評価も、耳に入る他人からの評判も、バイアスをますます強化するようにしかはたらかない。

鷲田清一「所有論」講談社より

 ノイズのない情報の収集に勤しむことは、こういう偏りをせっせせっせと強化してしまう気がする。
 価値の比較だけにどんどん固執してしまい、自分と他人へのまなざしを歪ませてしまう。

 また、この比較は、自分の中で、自分と他人を比較することである。つまり、第三者的な中立者がいない。
 したがって、この比較は最初から偏っている。
 ノイズのない情報の収集に、それだけに特化することは、この偏りをどんどん強化してしまう。
 そして、まなざしの歪みは、気がつかぬうちに比較だけですべてを判断する「ルサンチマン」(怨恨)に繋がりかねない。

 『花束みたいな恋をした』の読書ができなくなった麦のように。

 悲しい人間の性である。


読書とは、比較に先立って価値を体験することなのかもしれない


 著者は、読書が偶然性に満ちたノイズありきの趣味という。自分の知らない文脈に触れる必要性を説く。

 ノイズに価値を感じるのは、偶然であり、比較とは違う。
 言い換えれば、「図らずも対象そのものの内在的な価値に触れる瞬間」といえるかも知れない。
 つまり、他人や何かとの比較ではなく、自分がそのものの内在的な価値に「これはいい!」と思える瞬間である。

 そうすると、偶然性に満ちたノイズに触れることは、比較とは違ったかたちで、内在的な価値を体験することといえないだろうか。

 読書とは、比較に先立って価値を体験することなのかも知れない(もちろん読書だけではない)。

 著者は、ノイズを除去した情報収集に特化する社会ではなく「働きながら本を読める社会」のほうがよいという。
 わたしもそう思う。
 というか、むしろそうじゃないと、すべての人々が何かと比較することだけですべての価値を判断しようとしてしまう、なんだかまずい事態になりそうな気がする。

 比較する価値はもちろんダメなわけではないけれど、読書によって自分だけの内在的な価値を体験することで、バイアスに気づき、違う世界線を手に入れることも大事だと思う。

 今日一日を最高の一日にするために、すべての価値を何かとの比較だけで判断するような悲しい人間の性に陥ることを避けられるように、また次の本を読んでみよう、そんな感じです。

 そんなわけで、「今日一日を最高の一日に

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