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65年前からAI時代にインコース切れ切れのストレートが来た 「常識」(小林秀雄「考えるヒント」文春文庫より)

昨日の投稿をしたら、ちょっと昔のことを思い出して、自分が20歳くらいのときに読んだ本をなんかもう一度読んでみようかなと思った。

こんなに表紙ががポップだったかな笑
とっつきやすそうなタイトルの割に、本文は思ったより硬派。「考えるヒントをつかむ30の方法」的なイメージで読もうとすると失敗します笑

「え、これどういうことを言ってるの?」ってなります。ななめ読みみたいな読み方はできません。

小林秀雄は批評家として有名らしいのですが(というか、批評家っていうジャンルがあるのを知らなかった)、賛否両論ある方のようです。
しかし、小林秀雄論的な本が結構出ているくらい、偉大な物書きさんだと思います。

なんというかすごい切れ味を感じるんですよね。切られるんですよ。ななめ読みみたいな適当な読み方して読んですいません、みたいになる笑

そんな「考えるヒント」の一番最初に所収されているのが「常識」という随筆で、65年前(昭和34年)のものです。15年ぶりくらいに改めて読みました。

え、この文章65年前に書いたの?と驚きます。すごい人だとは思っていたけど、あ、本当にすごい人なんだって(失礼、切られる…)

AIの時代に、65年前からインコースにズバッと入るストレートを投げ込まれた感じです(切られる…)。

エドガー・ポーの「メールチェルの将棋指し」


 十八世紀の中頃、ハンガリーのケンプレンという男が、将棋を差す自働人形を発明し、西ヨーロッパの大都会を興行して歩き、大成功を収めた。

 人形の公開を見物したポーは、その秘密を暴いた。

 どこかに人間が隠れているに決まっている。

 機械である以上、数学の計算とおなじで、「一定の既知事項の必然的な発展には、一定の結果が避けられぬ」。
 機械には答えが最初から与えられている。

 一方、将棋は、一手一手、対局者の判断によるのだから、機械仕掛けのはずがない、だから中に人間がいるはずだ。

 ポーは、この機械の目的が、「人間を隠す」ことにあると気づき謎を解く。

東大の原子核研究所の将棋を指す「電子頭脳」


 東大の原子核研究所には、「電子頭脳」があって将棋を指すと聞いた。
 今のところの性能では、専門家には負けるそうだが、素人ならいい勝負らしい。
 半信半疑だけど、みんなで行ってみる。

 研究所に着く。
 しかし、研究所では「うちでは将棋の研究はやっておりません」とのこと。
 大笑いになった。

 このへんから切れ味スイッチがかかりだす。

大笑いにはなったが、併し、私達に、所長さんと一緒に笑う資格があったかどうか、と後になって考え込んだ事がある。
(中略)
読みというものが徹底した将棋の神様が二人で将棋を差したら、どういう事になるだろうか

考えるヒントより

 小林は中谷宇吉郎と以下のようなやり取りをする。

「将棋の神様同士で差してみたら、と言うんだよ」
「馬鹿言いなさんな」
「馬鹿なのは俺で、神様じゃない。神様なら読み切れる筈だ」
「そりゃ、駒のコンビネーションの数は一定だから、そういう筈だが、いくら神様だって、計算しようとなれば、何億年かかるかわからない」
「何億年かかろうが、一向構わぬ」
「そんなら、結果は出るさ。無意味な結果が出る筈だ」
「無意味な結果とは、勝負を無意味にする結果という意味だな」
「無論そうだ」
「ともかく、先手必勝であるか、後手必勝であるか、それとも千日手になるか、三つのうち、どれかになる事は判明する筈だな」
「そういう筈だ」
「仮りに、先手必勝の結果が出たら、神様は、お互いにどうぞお先きへ、という事になるな」
「当り前じゃないか。先手を決める振り駒だけが勝負になる」
「神様なら振り駒の偶然も見透しのわけだな」 「そう考えても何も悪くはない」
「すると神様を二人仮定したのが、そもそも不合理だったわけだ」
「理窟はそうだ」
「それで安心した」
「何が安心したんだ」
「結論が常識に一致したからさ」

考えるヒントより

ポーの常識は、「機械には、物を判断する能力はない、だから機械には将棋は差せない」というものであった。

(昭和34年に)このポーの常識が古いとは言えない。
ところが、「人工頭脳」と聞くと、私たちの常識は直ぐ揺らぐ。

機械と常識


小林は、機械でやる計算は反復運動に過ぎないから計算のうちに、ほんの少しでも判断し、選択する要素が入れば、機械は為すことがない、これは常識だという。

(AIの時代、これが常識なのか、もしかしたら、微妙になりつつあるのかも知れない。
ただ、AIは、基本的に自分で選択し、判断することはしないのではないかと思う。)

常識で考えれば、将棋という遊戯は、人間の一種の無智を条件としているはずである。
別の言い方をすれば、将棋は、熟慮断行という人間の活動の純粋な姿を現しているものである。

一方で、私たちは機械を利用することをやめるわけにはいかない。
私たちには機械の利用享楽がすっかり身について、機械をモデルにして物を考えるというつまらぬ習慣もすっかり身についた。

ここまでの考察が65年前。
これだけでもすごいなあとなりますが。

この次が最後の文章

なるほど、常識がなければ、私達は一日も生きられない。だから、みんな常識は働かせているわけだ。併し、その常識の働きが利く範囲なり世界なりが、現代ではどういう事になっているかを考えてみるがよい。常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。事が公になって、一とたび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に酷似してくるのは、どうした事であろうか。

考えるヒントより「常識」(文藝春秋 昭和三十四年六月)

この問いかけはあまりにも切れ味良すぎのインコースのズバッとストレートではないだろうか。

朝から軽い気持ちでまとめるのは、不可能。。。
ということで、驚きと尊敬を込めてこの一言しか思いつかなかった。

なんのはなしですか(やばい、切られた)

65年前のインコース剛球ストレートに朝から(本を読んだのは昨日の夜だけど)驚嘆したので、共有したくなった感じです。

そんなわけで、「今日一日を最高の一日に

起床時間5:30


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