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B'zの「衝動」(2006)が、あまりにも『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(谷川 嘉浩著、2024)だった
『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(谷川 嘉浩著)を読みました。
※Amazon のアソシエイトとして、この記事は適格販売により収入を得ています。
こちらの本は、読書熊さんの投稿を拝見して読ませていただきました。ありがとうございます!
読書熊さんの投稿は、いつも丁寧で、読んだ本に対する誠意・誠実さを感じます。
ぜひ、読書熊さんの読書感想文読んでみてください。
以下は、私なりの感想。
『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』を読んで、B‘zの「衝動」を思い出す。
本書は、「衝動」という非常につかみどころのないテーマを内容にした本である。
私はこの本を読んだとき、B‘zの「衝動」という曲(2006)を思い出した。
そして、当時感じたこの曲に対する違和感を思い出した(まだ覚えてた)。
その内容は前回のnoteにまとめた。
今回、非常に個人的だが、『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』を読んで、この疑問がすっきり解消された。
18年前に聞いた曲の違和感を思い出し、謎が解けたわけである(名探偵コナン風)。
というわけで、「解決編」。
衝動は、「幽霊」
まず、本書は、「衝動」が「幽霊」に似ているという。
「幽霊」のメタファーで「衝動」を論じると宣言する。
今回用いるのは、「幽霊」のメタファーです。衝動は、どこか幽霊に似ています。幽霊が人に取り憑くとき、人は幽霊に働きかけ、人間の意思決定や判断を左右します。これは、私たちが望んでいなくてもそうなります。衝動もそれと同じです。
「幽霊」は、「取り憑く」「憑依する」ものである。
「取り憑かれたみたいにハマること」で、「え?なんでそんなことをそんな熱量で?」という自分でもコントロールできないレベルの情熱が生まれる。
B‘zの衝動の2番のサビは次のような歌詞である。
僕にも 何かを 変えられる
さりげない 言葉で ささやいて
あなたの声が 明日への衝動
これは、あなた=幽霊で、幽霊がささやいている(!)ということだったのか。
いきなり衝撃の事実が発覚した。
何かに取り憑かれたように情熱を注ぐことで、何かを変えることができる。それが、衝動。
しかし、ここで違和感がある。1番のサビは次のようである。
僕にも 誰かを 愛せると
その手を 重ねて 知らせて
あなたのぬくもりがくれる衝動
ここを見ると恋愛(?)の曲のようにも思える。
幽霊を愛するということなのだろうか。
しかし、その疑問の答えが『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』にはあった。
衝動は、「偏愛」
本書は、「偏愛」こそが「衝動」へ繋がっていくと述べている。
衝動は、モチベーション3.0の内発的動機づけでは説明しきれないという。
モチベーションの語彙では説明しきれない行動がある。その行動の背後で働いているものを、私たちは「衝動」と呼んでいます。それは「え? なんでそんなことを、そんな熱量で?」と、周囲や自分自身が疑問に思うくらい非合理な動機であり、〝要領のいい〟行動、〝賢い〟行動とは無縁です。衝動を持つ人は、ちょっと不可解で、はちゃめちゃなところがあるわけです。その様子を、評論家の荻上チキさんは「自分ではもうコントロールしきれないくらいの情熱」「過剰なパッション」と表現していました。
著者は、「衝動」を、欲望の「強さ」ではなく、「深さ」で見る。
本書では、個人的で特定化された具体的な欲望のことを「偏愛」と呼んでいます。往々にして人生の「正しい」レールを外れて楽しく暮らしている人が身に着けているように思われる、「きめ細かく特定された、自分自身の(いわば偏った)好みや興味」のことです〔41〕。偏愛は他人と共有できないかもしれないし、合理性もないかもしれない。
こうした偏愛の延長に衝動はあります。偏愛は、衝動が具体的な行動としての出口を見つけたときに用いられる言葉です。だからこそ、偏愛をほどほどに一般化すれば、衝動を言い当てることができます。衝動は、解きほぐされた偏愛のことです。
つまり、個人的具体的に細分化された欲望を偏愛といい、それがほどほどに一般化されたものが衝動ということである。
こどものころ、中華スープの表面に細かい油の膜がたくさん張っていて、それをお箸で表面をなぞりながら油の膜をくっつけて大きくする作業をしばらくやっていて、父親に何をやってんの?といわれたことがある。たぶんこういうことだろう(?)
しかし、偏愛はただそのままでは足りない。解きほぐされてほどほどに一般化することが必要である。
「解きほぐされた偏愛」が「衝動」と著者は言う。
go for it go for it
愛情こそが衝動
この「愛情」というのがぴんときていなかった。
しかし、「解きほぐされた偏愛」だと解釈したらすっと入ってくる。
そもそも、「偏愛こそが衝動」を歌詞にするわけにもいかない。
愛情こそが衝動。
どうすれば衝動が見つかるのか
本書は、どうすれば衝動が見つかるのか。
筆者は、セルフインタビューを提案する。
これによって、自分の偏愛を探るところからはじめる。
筆者は、そのときのコツを挙げる。
①自分を丁重に扱うこと。環境を整えて、居心地の良い状態でセルフインタビューをしてみる。
②欠乏を経験する。何かを渇望する状態を経由して、自分に向き合うことを自分の欲望が見えてくる。
③ニヒリズム。「俺はコーヒーを飲むためなら世界が破滅したって構わない」という「むちゃくちゃさ」。これは、状況全体を暗くするツールであり、そのことによって灯の一つを見やすくするという効果がある。
この衝動を描き出すプロセス、実はB‘zの「衝動」にもあった。
長い夜に目覚めて 青白い部屋の中
不意に大事な何かを 傷つけたくなる(暗闇のfreedom)
扉の前で 立ち尽くす
ちっぽけな 背中に気づいて欲しい
①まず、部屋がなぜ「青白い」のか疑問だった。
しかし、これが衝動を生み出すための居心地のいい環境をさしているのだとしたら、しっくりくる。
③「不意に大事な何かを 傷つけたくなる」という不穏な歌詞。昨日のnoteでは、危険人物だ・・・という子どものネタにされていた。
しかし、これはニヒリズムのあらわれだとしたら合点がいく(ある意味危険人物であることに変わりはない)。
暗闇のフリーダムは、灯を見るために効果的なメタファーだ。
②「扉の前で立ち尽くすちっぽけな背中」、これは何かを渇望している様子である。気づいてほしいと訴えている。
この4行の短い歌詞で衝動を見つけるための要素が入っている。ほぼ網羅されているとすらいえないだろうか。だとしたらすごい。
このあと1番のサビに入っていくのだから、「衝動」の歌詞として、最高の流れである。
どのようにして衝動を社会に実装するのか
衝動が重要だとしても、すべてを衝動に従って、好き放題にやってしまうのはダメである。
著者は、現実的に衝動を社会に実装させる発想についても言及している。
衝動は人を突き動かす原動力として、行動に方向性は与えるが、具体的な目的地を与えるものではありません。目的は、衝動の力を借りながらも知性によって確立されるものであって、ひとりでに生まれるものではないのです。
そこで、衝動から目的や戦略を拵える知性の働きを、三つに分解して説明しました。ジョン・デューイによると、①環境の観察、②記憶の探索、③意味の判断という三つのステップに分けられます。環境の観察と記憶の探索を行き来しながら、事柄の意味を理解し、具体的な行動の計画につなげるということですね。衝動は知性と協力し合うことで、真価を発揮するわけです。
著者は、「衝動」を具体的な行動計画につなげるプロセスを説明している。
周囲を観察して情報を読み取り、それに関連しそうな記憶を探るという過程をぐるぐる探ることで、「ああ、これってこういうことだったんだ」という意味に気づくこと、衝動は知性と合わさって真価を発揮する。
なんと、この具体的なプロセスまでもが、B‘zの「衝動」の2番の冒頭にある。
真実ばかり追いかけて 揺れ動くeveryday
強がる自分の中身も まるっきり謎だらけ(燃え上がるfreedom)
子どもの時はこの曲はコナンの主題歌だから、真実とか謎とか入れたのかな程度に思っていた。
が、これはまさに「周囲を観察して情報を読み取り、それに関連しそうな記憶を探るという過程をぐるぐる探ることで、「ああ、これってこういうことだったんだ」という意味に気づ」こうとしている。
衝動に知性が合わさっているのだ。
衝動を見つけるプロセスを1番で、衝動を社会実装するプロセスを2番で歌っていたのである(18年前に)。
(番外編)衝動には溜めがある
筆者は衝動には溜めがあるという。これが、予期せぬ急な方向転換のトリガーとなる。
格闘やアクションのゲームに「溜め」という機能があります。それと同じように、衝動にも「溜め」があり、人には常に活用されないまま残っているものが潜在しています。その溜めは、何かきっかけがあったときに動き出すことがあります。溜めの衝動が動き出すことによって衝動のネットワークが書き換えられ、カロッツィや三浦さんのような態度の方向転換が生じるわけです。
昨日B‘zの「衝動」の間について、違和感があると述べた。
つまり、この曲は、サビの最後の「しょ~~どうっ」(?)が決めポイントだと思う。
ただ、「しょ~~どうっ」の前に一回微妙な間が空く。
で、なんというか「しょ~~どうっ」が文字数のわりに微妙に長い。
これは、衝動に必要とされている「溜め」を意識しているのではないか。
気になる方は、「しょ~~どうっ」の間と溜めを、一度聞いてみて頂きたい笑(最後らへん)。
衝動の戦略性
筆者は、衝動をベースにしたキャリアデザインについても提案する。
本章で語ってきた衝動と計画性の関係は、実験に取り組む科学者が仮説を扱うときのような計画性だと言えるかもしれません。衝動が私を連れていく方向性──つまり、直観が告げる方向性──は維持したまま、具体的な達成目標や手法となると、柔軟に修正や変更に開かれている。そういう実験精神で特徴づけられた計画性です。もちろん、衝動そのものが変わってしまう可能性を許容しながら。
ここでは、先にゴールや目標が決まっていて、それに向かってただがんばるというのとは違ったアプローチが提案されている。
すなわち、衝動によって告げられた方向性に実験精神を持ちながら、柔軟に計画を変えていく。
なんと、この点についてまでも、B‘zの「衝動」は触れている。
希望とは 目の前にある道
どこかに行けると 信じよう
あなたのすべてが 僕の衝動
最初から決まっているゴールではなく、「どこかに行けると信じる」
ここのあなたが「幽霊」なのだとしたら、方向性はすべて衝動によって告げられ、柔軟に「目の前にある道」=「希望」を目指していく。
まさか、ここもまたシンクロするとは。。。
どうすれば、衝動が自己に取り憑くのか
衝動が幽霊の取り憑くメタファーだとしたら、どうやったら衝動が取り憑くのか、もう少し言い換えるなら衝動を感受しやすいメディアに自分がなるにはということを最後に検討する。
この点について、筆者は、<内向きの流れ>だけでなく、<外向きの流れ>から影響を受ける感性が重要という。「緩衝材に覆われた自己」と「多孔的な自己」といった表現もしている。
筆者は、「善なるものを招き入れるアプローチ」を提案する。
例えば、「ラーメン一緒に行こ」と父親に声をかけるような、ちょっとした行動。そういうものを通じて達成される他者への想像が、「善なるものを招き入れる」と呼ばれています。「善なるものを招き入れる」というフレーズは大袈裟に聞こえますが、〈いいなと思う人や物事に、試しに働きかけてみることで、世界の側から何かが返ってくるのを楽しみにする〉
あるいは、誘惑される力
この「誘惑される力」こそ、衝動を憑依させる自己の敏感さにほかなりません。
あるいは、ライブ性。同時性。ジャックイン
「同時性」という無味乾燥な言葉と比べて、「ジャックイン」には何かとごっそり接続してしまう生っぽさ、接続の触感があります。すなわち、接続している何かに自分を委ねることのリアルさです。
略
具体的には、自己の内側と外側が相互浸透し合うような多孔的な状態として自分のことを理解し、その上で、身近な他者の質感を取り入れられるように、自分の何かを動かし働きかけてみることです。
これは、自己の外側と相互浸透し合うように触れる、その上で質感を取り入れ、アクションを通してうねりを創出させるものである。
これもまさか・・・あった。サビでした笑
僕にも 誰かを 愛せると
その手を 重ねて 知らせて
あなたのぬくもりがくれる衝動
そして、こんな歌詞もある。
はがねのような 絆だけが
凹んでく心を 踏ん張らせる
2番のサビの直前である。外側をふれあう相互浸透し合うように触れる、その上で質感を取り入れ、そしてその絆が凹んでいく心を踏ん張らせる。この後、サビだから、2番の流れは、「知性を取り入れ→相互浸透し→衝動」である。
2番も完璧な流れである。
もはや、ここまで重ね合わさっていくと敬意と驚異を感じざるを得ない。。。
「衝動」という一つのワードについて、一流の方が深いレベルで掘り下げていくと、行き着く場所は同じということなのか。。。
おわりに
衝動の赴くままに書いていたら、久しぶりの長文になってしまいました。
全く個人的ですが、昔の違和感がすっきりしたので良かったです。
思考の庭がまた広がりました。
最後にこの歌詞を紹介して、まとめます。
誰もが 無限の可能性を
抱きしめて 生まれてきたんでしょう? ねえ。
是非、B‘zを聞くか、名探偵コナンを傍らに(笑)、本書を読んでみてください。
人生のレールを外れるというと不穏な感じがしてきますが、実はそうではなく、知性と両輪で真価を発揮する、この実験的な動きは楽しさと謎の熱量を生む、それ自体を楽しんじゃえば良いじゃない、今日はそんな感じです。
ということで、「今日一日を最高の一日に」
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