見出し画像

短文小説紹介 #2

概要

 僕は自分のTwitterアカウント(@OnishiHitsuji)で小説の紹介をしている。ここにまとめられた7つの紹介の文章はそちらで共有しているものと同様だ。
 今回は011から017までとなっている。

011-川端康成「伊豆の踊子」

 その山道を抜けると、僕は予想していたその好機に胸が高鳴るのを感じる。立ち寄った茶屋にはあの踊り子の集団が座していたからだ。
 学生のうら若き青年と、自然美に包まれた踊り子との純粋なラブストーリーを展開する本作。伊豆の雄大さに囲まれてある彼の旅と、その伊豆の豊かさを象徴するような少女の存在。二つの若い人の魂のぶつかり合いからなるこの物語はじつに純粋で、雪のひとひらのように滑らかに読者の心の底へと降りていく。
 これほどまでに読みやすい作品もないだろう。普段ライトノベルや恋愛物語を軸にしている方にこそおすすめしたい上質な純文学小説だ。

012-エミール・ゾラ「水車小屋攻撃」

 三年前の夏、僕は「海外小説紹介」という題で海外の文学について所感を述べた。イギリスの文学は冷えていて簡潔だ。アメリカの文学は荒野のバラのようで獰猛な美しさを備えている。
 そしてフランスの文学については絵画的だと評した。それも水彩画のような、重なり合った淡い色がぼんやりとした輪郭で幻影の世界を描き出している、と。
「水車小屋攻撃」においては、とくに序盤においてその特質がはっきりと見られるだろう。思わず口元が綻んでしまうほど豊潤な田園風景の描写は、仏文学史のひとつに数えられるだろう。
 しかし本作はそれだけにとどまらない皮肉さを抱えている。愛の物語が進行していくのだが、これほどに大胆で残酷なラストシーンを読むことはまれに思う。読んでくれたのならば、その表現の巧みさに驚かされるとともに、社会のむごたらしさにあてらてしまうことだろう。

013-アリス・マンロー「ピアノ・レッスン」

 私たちはピアノを習っていた。あの先生のもとで。
 だから私たちの子どももあの先生のところに通っている。
 でも、生徒の数は私たちのころより少ないし、年々さらに減ってきている。
 そんな先生のもとで開催されるクリスマスのパーティ。すべてが古くなって、誰が手を下さなくともいずれ消えていくだろう先生の存在のように色あせたピアノの教室。ぬるくなっパンチ、ハエの見えるケーキ。私たちは子どもと一緒に訪れて早く終わらないかとため息をつく。そこに先生の別の教え子たちがやってくる。ふるまいが微妙にちがう、少ししてわかるそういう子どもたちがピアノを弾く。
 過ぎていく古い記憶は、今ここにないから美しい。そんな現実を突きつけるような描写から始まる本作。意外性と精緻なその文章によって描き出される「自然美」の物語。アリス・マンローほど文章が上手い人はいないので、誰でも読書する人間なら読む価値はあるだろう。

014-ジョン・チーヴァー「引っ越し日」

 大家――ではなく、タワー・マンション管理人。せっせとごみを集め、クレームの電話を取っては対応し、出勤する住人に挨拶する。
 繰り返される毎日とも言える。やりがいのある仕事とも言える。少なくともそれは楽なことではない。努力が必要とされる仕事である。
 そのような市井の日常から、ジョン・チーヴァーは奇妙な輝きを取り出して、シェフのように料理する。彼の持ち味はその切り出し方だと僕は思う。決してシェイクスピアのまねごとでない、チーヴァーのストーリーがそこにはある。

015-バルザック「サラジーヌ」

 ごく個人的な体験として、僕は西洋文学の授業を取っていた。名講義――というわけではなかったが、資するところのある、実のある講義だった。「サラジーヌ」、そして『S/Z』とはそんな講義のなかで出会うことになった。
 普段本を読むが、それは愉しみのためであり、文学研究なんて素人だ、というひとがほとんどではないだろうか? そんな方でも、「サラジーヌ」を巡る『S/Z』についてはぜひ触れてみてほしい。本短篇が素晴らしいことは言わずもがな、洞窟を松明片手に進んでいくような小説の研究の奥深さもたっぷりと味わうことができるからだ。
 また、普段と違ったスタイルを体験して別の視点を養うことは、人生を明るくすることに繋がっていくはずだ。

016-ジャック・ロンドン「火を熾す(To build a fire)」

 極寒という二文字が、極北の雪原をあらわすのに適切であるようには思わない。しばしばわれわれは自然の雄大さを畏怖のなかで謳おうと試みるが、やはり言葉は足りていない。どの表現も実際の自然に見劣りしている、あるいは凡庸な響きに感じられる。
 その無謀な挑戦のうえで、もっとも成功したといえる作家はジャック・ロンドンだろう。本作品に限らず、彼の肌の感覚は自然の深みを正確にとらえている。
 また、この作品は「優れた自然の描写」で済ますことのできない、特別な語りをわれわれに持ち掛ける。それは「畏怖」であったり、「天罰」であったり、「運命」などで表現されるのであろう。あるいは、どれも的外れかもしれない。
 自然の風景という巨大な胎動のなかでちっぽけな人間が生き残ろうとあがく本作。そこには悲しさがあり、孤独がある。決して受け入れてはならない世界のまなざしがある。

017-宮下奈都「羊と鋼の森」

 時折、短編小説と長編小説のちがいについて考えてみる。もちろん、僕は頭が働くほうではないので「わからない」となる。それに、僕が考えなくても、過去の偉人たちがそのへんはクリアしてくれているように感じる。とくに、ジョン・チーヴァーが「なぜ私は短編小説を書くのか?」で語っていることは重要な回答のひとつであると思う。
 そのように長編と短篇のちがいを考えた際、「羊と鋼の森」はじつに長編らしい長編だろう。それは特別な物語ではない。奇異な祖母が登場することもないし、真っ白な海の巨獣が吠えることもない。調律師の主人公を巡る成長の物語だ。心地よく馴染む文章の連続のあと、われわれは本を閉じて、自分がそれまでになく優しい気持ちになっていることに気がつくだろう。

おわりに

 先週に続いて、今週も素晴らしかった。気候の穏やかさは血液のように全身へわたっていく。朗らかな気持ちにさせてくれる。が、実のところ僕は転んだり風邪をひいたりでそこそこひどい思いをした。いたたたた……体調管理がまずいところもあったので、そこのところはきちんとしなきゃいけない。
 今週書いた作品も、まあ体調と同じで微妙だった。それでも公開するのは文学に対するささやかな抵抗だ。
 この中だとやはり「火を熾す」が好きだ。僕もあのようなものを書きたい。「伊豆の踊子」は直近で読み返したのだが、ほんとうに面白く読めた。本文の通りだ。ぜひ手に取ってみてほしい。

この記事が参加している募集

#読書感想文

191,569件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?