見出し画像

#尊敬しているお兄さんと終電間際の新宿でタバコミュニケーションをした話

対ヒトで人生に向き合う

尊敬したり、憧れの社会人って身近にいますか。
わたしはいます。
前職で、退職諸々のはなしがこじれて会社を辞めようにも辞められないことがあったのですが、会社の一採用を担っているのに、わたしの人生のために奔走して下さった人事のお兄さんがいます。

新宿駅南口の前、夜の22時、「覚悟が本当にあるなら、手助けします!!!」「はい!!!!正々堂々戦います!!!」なんてやりとりをしながら退職まで鼓舞してもらって。
これからの人生の相談に乗ってもらって。
自分のキャリアについて親身になってくださった方。

(人に話しすぎて、わたしの知り合いの中では、あ、またこのお兄さんのお話ね!って思う人も少なからずいるかもしれない)

尊敬する社会人って誰?って聞かれたら、真っ先にそのお兄さんです!って答えるくらい、わたしにとっては憧れの存在。
そんなお兄さんと二人で飲んで、やっぱりこのお兄さんみたいに悪者を寄せ付けないぐらい素敵な大人になりたいと思ったので、ちょっとそれについてアウトプットしようかな。

すごいところは、人への媚び・諂が全くない性格

人にあまり興味を持たないわたし。
過去は過去、今は今だし、人は不可侵領域だと思っているので、わたしが何を言っても変わらないし、わたしも無理に変えようとしない。
否定はしないのでありのままのその人でいいんじゃない?って思っている。

だからこそ、その人自身の考えや価値観にわたしが興味を持てるかどうかで、自分が付き合いたい人や周りにいて欲しい人を選ぶ。
…っていうのが自分の価値観なんだけれど。

そのお兄さんはとにかく人格者。
人事をやられているからこそ、人を見る目がとことん肥えている人だと思う。
引き出すのが上手いし、自分のことを語るのも上手い、会話に全く厭らしさを感じないから、賢い人なんだろうなあとつくづく思う。
そういう、話しているときの他人に対する優越感とか、相手に媚を売ろうという下心が、話していて全く見えない完璧超人なのである。

本当に他人に優しいのか、人に対して興味がないのからこそそう振る舞えるのかのどっちかが分からないけれど。

「高度に洗練された他人に興味がない人は、優しい人と区別がつかない」

ちょっと前に、高度に洗練された他人に興味がない人は優しい人と区別がつかない、って記事話題になったけど、わたし自身はこれに当てはまると思っている。
興味がないからこそ、人に悪く思われないような対応ができると思っているんだけれど…このお兄さんはどうだろう?

この人がなにをモチベーションにして動いているのかがちょっと謎だったりするけれど、わたしと話している現実を見ているのではなく、さらに遠く、未来の未来を考えているからそう接せられるんだろうなあ。とおもう。
原動力はなんなんだろう?って不思議なくらい、人格者なのだ。

ラブとしての感情というよりも、可愛がってもらった近所のおにいちゃんの感覚とか、小さい頃から面倒を見てもらった従兄弟のにいちゃんみたいな感覚に近い。

社会人になると人生を達観し出す…?

社会人になると、誰かから心揺さぶられるぐらい助けてもらったり、感動させられることって、少なくなる。とわたしは思っている。

高校生のころは、ずっと片思いしてた同級生の男の子が「え、誰?!」っていう年下の後輩と付き合い出して、大ショックで声上げて大泣きしながら自転車で爆走して帰ったり。
ずっと仲が良かった幼馴染と仲違いして、声を荒げるぐらいの喧嘩をしたり。

自分の中で我慢をしていた感情がある感情を境に、ドバドバっとコップから溢れ出すときに、喜怒哀楽の感情が途端に姿を見せてきて、自分が思ってもないぐらいに感情的になることって意外と多かったなあと思う。

けど、今はどうだろう。
人生を達観し始めている自分がいる。

若かりし自分は、主に「自分の気持ちをこの人はわかってくれなかった」というとき、他人から裏切られた気持ちが強くなってしまったときがあると、心がさざなみを立てることが多かった気がする。

ただ、今の自分は、合わないと見切りをつけると吹っ切れも早いと言うか。自分が大切にしている価値観と合わないと思って、その人と一緒にいると苦しいと思った瞬間、感情は荒げたりしないまま、自分の中でただの「無」となる。
他人に対して達観してしまっている自分がいる。

それを他人に押し付けることなく、そう感じてしまったら最後、具体的な距離は離れずとも、心の距離は「離れていく」。
特に社会人になって、こうして振る舞ってしまうことって多い気がする。
それを=達観、傍観、という風にわたしは解釈しているんだけれど。

尊敬しているお兄さんは、どうやって、自分の中で見切りをつけた人と接しているのだろうか。
不思議で止まないし、前職でお世話になったときなんて、お兄さんにとってはわたしはただの一社員だし、むしろどうでもいいヤツだったと思う。
なんであそこまで親身に、わたしのこれからを支えてくれたのかが、今でも謎である。

タバコは人の本性が見えるもの、だから好き

その日は、終電間際まで、お酒を飲んでいた。
お酒が結構飲めるわたしでも、ほろよいでちょっと饒舌になるぐらいには飲んだ。
時間は23時半で、最寄りまでの終電ギリギリだ。

普段わたしはタバコは吸わない。
ただ、前から、タバコを吸う人と飲みに行ったりすると、たまに一本もらったりしている。お付き合い程度に。

タバコは人の本性が見えるものだと思っている。人のわからないところを露呈してくれる道具というか。

タバコを吸うときって、ふだん隠している自分とは別の人で、本性が出ると思う。普段隠している本音。自分も他人も。だから好きだったりもする。

その日、お兄さんは飲んだ後、タバコを吸っていくというので、喫煙所までついていった。終電間際の新宿。もわっとした湿気と熱風で、夜だけどうだるような暑さだった。

うだるような熱帯夜にて、タバコをもらう

お兄さんがどんな人なのか、なにを考えているのか、タバコを一本もらっても分からず終いだ。
だけど、タバコを吸っているときに放つ言葉とか、本音な気がして、なんとなく嬉しかった。
あれほどまでにわたしを助けてくれたのに、当時はなにを考えているかちょっと分からなかったから、本音を聞けた気がする。

なんて言ってたっけ、そのとき。
「25なんて、いろいろできる年齢や!戻りたい!」ってか。

仕事もプライベートも色々なことに悩んで、自分の限界決めつけて、悩んでいたことをまたしても見透かされた感覚。
と同時に、この人が言うなら本当に今好きなことをなんでもできそうな気がする。という感覚。
敵わない、と思いながら、2本もタバコを貰ってしまった。

そのお兄さんは、1本目のタバコを一口も口つけないまま、お話をしてくれた。いつの間にかタバコの火が消えてしまっていたのにそんなこと気にもせずに、わたしに話して、諭してくれた。
タバコを吸いに行っているんじゃなくて、一緒に吸う人のそういう仕草や雰囲気を、わたしも味わいに行っている。

身体に悪いことは知ってるし、毎日吸いたいとは思わないけど、こういう場と、雰囲気は結構好きだったりする。

自分をポジティブにしてくれる人たちの周りにいたい

25、まだ色々出来すぎるんだよな。
何しようかなあ。
本気で学問を学び直したいと思えているから、いつか落ち着いたら、学問を学ぶ環境に飛び込むことが一番かなあ。

そうやって自分の今後をポジティブに思えるような言葉をかけてくれたり、楽しさを感じさせてくれる人たちといると、だいすきって思える。

ふーっと新宿の都会に吐き出す煙。
生きているような都会の中に、自分の吐く煙が混ざり込むのにノスタルジーを感じて、目元が緩んだ。

よろしければサポートお願いいたします◎