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放浪
小夜倉庫 https://on-a-wet-night.sakura.ne.jp/kool/
今はここにいます。
物語に生かされている
学生時代を終え、この春からは仕事をしている。この情勢のため、レギュラーも知らないのに多くのイレギュラーに見舞われたが、まあそれはそれとして、仕事をするひとになった。
いわゆる社会人になってから(これも奇妙な言葉で、別に仕事をしていなくても社会の構成員であることには変わりはないはずなのに、なぜ一般的には仕事をしているひとを社会人と呼ぶのだろう。考えると悲しくなる)、自分はオタクじゃなくてもそれなり
行き止まり、あるいは遠い彼方
一年以上前に書いた文章の再掲。あのときしか書けなかったし、今はもう書けない。けれど、今このとき読み返せてよかった。
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万策尽きたとき、人は祈ることしかできない。たとえば遠くの戦争、遠くの災害、遠くの悲劇、誰かの訃報。死ははるか彼方なので、これもまた遠い。手の届かないところに向けられた悲しみは当て所なく、人は上を向き、天に祈る。その営みを笑うことはできない。
祈りで腹が膨れることはないが
My journey will continue.
作品を咀嚼する、作品を消化する、などの物言いがあるように、鑑賞した作品が己の血肉になるイメージは、わりに多くの人間が共有しているのだろう。
わたしもそのイメージを持っている。新しく鑑賞した作品が、自分のこれまで積み重ねてきた血肉と呼応して、自分の分かち難い一部になる。そういうことを日々繰り返している。
『MIU404』は今や間違いなくわたしの血肉だが、もはやそれでは収まりきらない。どうかこの先、
白桃に人刺すごとく刃を入れて
トラウマという言葉を使うことに遠慮が拭えずにいる。
自分の人生をどのように物語るのかは自分が決めることで、他人と比較する必要はないと、常々口にしているのはわたし自身であるにも関わらず、トラウマという語に関しては、どうしても自分にはおこがましいように思えて、根深い傷にこそ不思議と使えない。
だからこういう言い方になるが、まだ幼かった頃の誕生日に、ちょっと嫌な思い出がある。具体的には語らないけれど
囚われないために残すこと
昨年7月19日にふせったーにアップロードした文章を再掲します。
*
亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。また、被害に遭われた方、そして彼らの人生や仕事を愛している方々が、すこしでもすこやかにあることを願います。
わたしは、言うほど京都アニメーションのファンというわけではなかった。執念さえ感じる繊細で丁寧な芝居、きらめきあふれる緻密な背景、時代を切り開くような絵柄の変化、心底素晴らしいこと
立つ鳥は濁さずとも残す
――美しくない真実は、ただの「事実」にすぎないだろう。
寺山修司がかつてそう語っていたことを、最近よく思い出す。
情報と物語の違いについて考えている。これらは感覚的に当てはめた言葉であって、辞書を引いて何かを得たいわけではない。
物語には言葉と行間がある。言葉に影があるなら行間にも影があるとはこれまた寺山の言葉だが、行間という余白があればこそ物語はうつくしいのだと、わたしは思う。
他方で情報は