くたくたの拒絶

拒絶することは疲れる。

誰かを拒絶することにたくさんエネルギーが必要なひととそうでないひとがいるらしいということには、流石にもう気づいた。
わたしは前者の人間で、拒絶しなければ……と思うことも実際にそれをすることも、それがたとえどう考えてもそうすべきなのだとしても、くたくたに疲れてしまう。

実家の母親は何かにつけてわたしにものを送ろうとするし、送る。
「送りましょうか」と尋ねられたとき、わたしは拒絶する。場所がないから、間に合ってるから。にもかかわらず、しばらく経つと送られてくる。発送してから「送りました」と連絡が来る。わたしはそれに、ありがとうございます、と返す。

今日は返さなかった。

母親がわたしにすることは「母親が娘にしてあげたいこと」であって、「わたしがしてほしいこと」ではない。そういう体験がいくつもあり、それをここで並べることはしない。

不定期に送られてくるわたしの意志に背くものも、たぶんそういうことなのだろうと思う。
母親の中の「娘に何かしてあげたい」気持ちを注ぐコップから水が溢れ出したときにそうするのであって、わたしの意志は関係ない。たとえ何度も伝えたものであっても。

ところで、わたしにもコップがある。

わたしのコップがもっと大きければ、たぶんわたしは母親から送られる要らないものを受け取り続けていただろう。けれど、今はもうできない。すくなくとも今は。
大きな段ボール箱を抱えて配達してくれた気のよさそうなお兄さんが「重いよ」としきりに心配してくれて、それを自分の腕に持ってみて、だめだな、と思った。

くたくたになりながら荷を解き、冷蔵庫と戸棚に向き合い、収まらないものは床に置き、改めて、だめだな。
母親にLINEを送った。何かしたい気持ちは汲みますが、ほんとうに置き場がないので、無断で送るのは控えてください。

そうして今、これを書いている。
未来永劫の拒絶にはならないだろう。そのうち母親はきっとまた忘れて、何かを送ってくる。わたしはそれを仕舞ったり捨てたりする。数ヶ月先にはおそらくそうなっている気がする。

その程度のものでしかないのに、拒絶することは疲れる。要請することも疲れる。対象が明確だと、途端に。
自分が拒絶に対して必要以上に傷ついてしまう人間だという自覚はあり、そういう性質もあれやこれの反動なのだろうとわかっている。原因を自覚したところで、その責任を外に求める気にはなれない。

うまい具合になりたいな、と思う。うまい具合になりたい。根本から大丈夫になることはたぶんないが、なあなあに、うまい具合になりたい。