不親切な日記

読み手に不親切な日記。

他者と切実さを共有することの不可能性について、ここ半年ほどはよく考えていた。

わたしはずっと星野源の音楽をちゃんと聴くわけにはいかないと思っていて、それは自分が彼に救われてしまう可能性、ひいては彼についてわかった気になってしまう可能性を心から恐れているからだ。
音楽は、いろんなものが剥き出しになりそうで、怖い。自分にとって音楽を聴くことはすごく孤独な営みで、だからいわゆるイメソンというものもほとんどわからない。
彼にわたしの心のやわらかい部分を直接さわられて、それがおそらくひじょうに快いものであろうことが怖い。ちらほらと小耳に挟む彼のひととなりも、きっととても好きになるだろうとわかっていることが怖い。そうなってしまったが最後、たぶんわたしは彼を取り巻く様々なものが許せなくなるだろうことも、怖い。自分の傲慢さが彼に関して発揮されることを、心から恐れている。

余談だが、この話をすると「押すなよ、絶対に押すなよ」のごとくあれこれと勧められるが、マジで求めていない。こういう切実さもまたなかなか理解されないし、そういうものだろうと思う。

『ガールズバンドパーティ!』Pastel*Palettesバンドストーリー3章も、わたしのこういう部分を刺激してくるもので、怖かった。彼女たちが架空のキャラクターでよかったと心の底から思う。丸山彩のまなざしが遠くまでやさしく届くこと、彼女がそれを届けようとしていること、それを心から愛しているけれど、やっぱり怖い。
アイドルもアーティストも生きた人間で、それを消費してしまうことが怖い。生きた人間に救われることが怖い。生きた人間を物語として見てしまうことが怖い。彼ら彼女らが自分のバランスを取った上で表舞台に上がっているのだとしても、やっぱり。

わたしは物語に救われているし、物語を生み出すひとびとのことを愛しているけれど、それはあくまでも物語を介した営みだ。だからこそわたしは安心して救われることができるし、愛することができる。

わたしはよく、「Wonderland Girl」を聴いて救われる氷川日菜に全然似ていないひとのことや、「ぎゅっDAYS♪」を聴いて救われる大和麻弥にちょっと似ているひとのことを考える。そういう営みが『ガールズバンドパーティ!』の世界のどこかで起きているはずで、それがとても貴重なものであることを。そしてそれはこの世界でも、きっと。

Pastel*Palettesのみんながほんとうにだいすきで、彼女たちの生き様を愛していて、3章の「物語」はほんとうにほんとうにすごくて、だから怖い。
そして、ああこれはわたしが星野源の音楽に怯えていることと、たぶん近い話だったんだな、とわかった。

誰かと切実さを共有することは難しいし、本質的には不可能だろう。けれど、音楽には「ひょっとして」と思わせる力がある。わたしはそれをすごく恐れている。
わたしは『MIU404』9話に本当に本当に救われていて、この世界への無限の増悪と、それでもわたしの人生にちゃんとあったいくつかの僥倖を抱きしめて、すごくすごくやすらかに眠ることができた。…を目撃して以来、はじめて安心できた夜だった。
わたしと同じ温度で怒り、悲しみ、喜んでくれたあなた。わたしと一緒に戦ってくれたあなた。そういう存在が彼らにいて、わたしにもいたことを、心底からさいわいに思っている。
けれどそれは「作中の出来事と自分の体験を自分が重ねている」ということだ。そういう距離だから、安心して救われて、安心して愛せる。物語とそれを生み出すひとを。

彼の音楽の温度にふれるのが怖い。たぶんそういうことなんだろう。そしてこの気持ちは別に、誰にも伝わらなくてもいいかな、と思う。