立つ鳥は濁さずとも残す

――美しくない真実は、ただの「事実」にすぎないだろう。

寺山修司がかつてそう語っていたことを、最近よく思い出す。

情報と物語の違いについて考えている。これらは感覚的に当てはめた言葉であって、辞書を引いて何かを得たいわけではない。
物語には言葉と行間がある。言葉に影があるなら行間にも影があるとはこれまた寺山の言葉だが、行間という余白があればこそ物語はうつくしいのだと、わたしは思う。
他方で情報は、余白の美とは相性が、おそらく悪い。むしろ余白を可能な限り狭め、言葉さえわかれば伝えたいことが伝わる、そういうものだろう。

わたしは高校生の頃から余白をうつくしく残す物語やひとが好きで、だから花京院典明を心から愛していた。わたしは彼の描写が好きで、そして彼の余白を愛している。
死にゆく彼のモノローグは、余白をある一定の方向に大きく広げる。とても上品に。うつくしい描写とはそういうものだと今でも思っている。何もかも描いてしまうのではなく、ただ読者の身体や視線をどこか遠くの一点に向き直させるものだと。その先に何があるのか、朧気な影だけが光の中に見えている。

物語の余白を情報に埋められるのは、とてもさびしい。このさびしさについて誰も彼もにわかってほしいとは思わないので、詳しくは語らない。

わたしはもともと、終わった物語が好きだった。飛び立つ鳥が水面に残した波紋を消えてしまうまで見つめるように、そういうふうに物語を愛してきた。
鳥がどこに行ったのかは知らない。わたしはただ、鳥の消えた空と波紋の消えた水面を交互に見つめている。
そういえば、どんな鳥だって想像力より高くは飛べないとも、寺山は言っていたのだ。