物語に生かされている

学生時代を終え、この春からは仕事をしている。この情勢のため、レギュラーも知らないのに多くのイレギュラーに見舞われたが、まあそれはそれとして、仕事をするひとになった。

いわゆる社会人になってから(これも奇妙な言葉で、別に仕事をしていなくても社会の構成員であることには変わりはないはずなのに、なぜ一般的には仕事をしているひとを社会人と呼ぶのだろう。考えると悲しくなる)、自分はオタクじゃなくてもそれなりに楽しく生きてはゆけるのだろうな、と考えていた。
今日の夕飯はどうしようとか、花金はいつものバーに行こうとか、そういうことで存外楽しくやっていけるのだろう。
あのことがあって人間を憎み世界の破滅を願っていたときだって、食事を作り、シャワーを浴び、眠り、起き、仕事をしていた。その合間に泣き喚いてはいたけれど、それでも生活は続けていた。

「推しがいないと生きてゆけない」話を見かけるたびに、自分がそうはなれないということを考える。
自分はたぶん、熱を上げているコンテンツがなくても、推しがいなくても、食べて眠って働いて、生きてはゆける。
むしろ、そういう生活が整っていなければ、作品鑑賞ができない。わたしはいろんな規範を内面化している人間で、「ちゃんと」していないと立っていられない。それは自分ではもはやどうしようもないことで、誰かに変えてほしいとも思わない。他者にはそれを振りかざしたくないと思うだけだ。

けれど、この「生きてはゆける」は、本当にただ日々をつないで死ぬまで過ごせるというだけのことで、それはやっぱり、さみしい。

自分にとって「生きる」ということは、「物語る」ということだ。そしてそのためには、自分の人生を費やして、燃やして、鑑賞する物語が必要だ。

物語を鑑賞するとき、自分の人生は鑑賞のための道具になる。役に立つものもあれば邪魔なものもあるけれど、そこにある化学反応は、間違いなく快楽だ。わたしはそれが欲しい。そうすることによって復讐したい。何に? おそらくそれは自分の過去に、生い立ちに。
そして何より、自分の人生を愛したい。人間を愛したい。世界を愛したい。自分の欠落を、豊かさに変えたい。それはただ生活するだけではできない。すくなくともわたしには。それができないのもまた欠落なのだろう。けれど、物語はそれを可能にしてくれる。

わたしの望むわたしの生き方のために、物語は必要不可欠だ。たぶん、鑑賞なんてしないほうが、自分の欠落を意識せずに過ごせるのだろう。そういう人生もある。
けれどわたしは、たとえどんなにみじめでも、物語に生かされていたい。

こういうのはあまりにも自分本位で、物語に失礼かもしれない。もちろん単に物語を愛しているから鑑賞するという側面もあるけれど、そうすることによって自分を愛していることを、決して否定はできない。
服を着るように、化粧をするように、物語を鑑賞している。衣服や化粧がしばしば皮膚にもひとしいように、物語はわたしの血肉だ。わたしの愛せるわたしの血肉。そして同時に、完全に紐解くことなど叶わない永遠の他者でもある。それがわたしには心地いい。わたしの救いはそこにある。そんな気がしている。