「時には」逃げよう

noteを最後に更新してから2年になった。あの頃はブスで能無しでお先真っ暗だと思っていた女子高校生が、ブスで能無しのフリーターになった。来年から進学する予定ではあるが、その先に希望があるかは甚だ疑問だ。
最近は持て余した時間を使って自分の好きなものに浸るだけの生活を送っている。そんな中でも贅沢な事に鬱憤は溜まるようで、私の場合は何かを書くことでそれを発散したくなった。

ということで能無し人間の社会への不満という名の屁理屈とただただ書きたいことをつらつらと書いていく。

私はもともと意思がかなり弱く、軸がブレにブレている。信念とか、曖昧な言い方をすれば自分というものがない。読んだ本や見た映画、尊敬する人物(それもやたら沢山いる)にすぐに影響される。自分に強い意志がないからそれを持ってる人にすぐ憧れてしまうのだ。中学生の頃には、可愛いと思って憧れたアニメキャラの口調を真似てみたり、「〜じゃない?」とか何か意見を断定されると、自分で咀嚼もせず「そうなのかも!」とその意見をそのまま自分のものにしてしまったり。「この人はそう思うんだな」が出来ない。
歳を重ねるにつれて色々なコンテンツに触れ、様々な意見を目にするようになってからは、極端な思想やアンチ的意見には「私はそうは思わない」と一度立ち止まることが出来るようになったが、頭の良さそうな人が理路整然とそれっぽい事を喋っていると「へぇそうなんだ」と未だに単純な解釈をしてしまう。簡単に言えば非常に騙されやすい人間である。

このあまりの自分のなさをどうにかするべく、自分がどうしてこうなったかを考えてみた。
結論から言えば理由はおそらく2つ。単純な勉強不足からくる知識の無さ、そして対人経験のなさだ。

まず一つ目の知識のなさについて考える。
実は、私はほとんど学校に通っていない。義務教育である小学生の時からだ。小学4年生くらいまでは順調すぎるくらいに楽しく学校に通っていたが、その翌年くらいから殆ど学校に行った記憶がない。いじめられていたといえば大袈裟になるくらいの些細な軋轢がきっかけだったと思う。クラスの人達とソリが合わなくなった、おそらくそういう理由。でも当時の私にはそれがすごく負担だった。教室に行く、そのもっと手前の学校に行こうとする段階で、具合が悪くなっていった。
家に帰れば治っていたから所謂知恵熱だったのかも。
そうやってずるずると休んでは行ってを繰り返していたが、中学受験を控えて勉強していた私にとってはそれが逆に好都合になっていた。勉強する時間が他の子より多かったのだ。そのように災い転じて福と成す結果で、私は中学受験に合格し、ソリが合わないと思っていた同級生たちと離れたことでそこからは順調な中学校生活を送る、はずだった。

私はその経験から、学校、クラスそのものに苦手意識を持ってしまったのだ。
それでも意外と新しいメンツになった中学1年の初めは楽しくやっていた。が、段々とまた問題が発生してくる。それは勉強についていけないということだった。小学生のときは、中学受験の為に週四で塾に通って勉強していた為、周りに勉強で置いていかれるという心配はなかった。というよりそんな生活をしていたから少々周りを舐めていた部分があったと思う。そんな調子で周りより勉強する時間があった為に、たまたま本来の自分より少しレベルの高い中学校に受かってしまった私は、入学後とんでもなく痛い目を見ることになる。テストで酷い点を取り続けるのだ。それまで中学受験を目標にし、当初狙っていた学校よりもレベルの高い学校に受かってしまった慢心、初めて手にしたスマホ、そしてやってくる怠惰な生活。その結果、授業にはついていけないしテストでは赤点を取るし補習まみれで放課後は自由に過ごせないという日々を迎えてしまった。

その中でも特に私の幼心を傷つけた出来事がある。それは、赤点を取り補習になる生徒をクラス全員の前で発表されることだった。
屈辱、羞恥、惨め、そんな感情をテストが終わったあとに毎度毎度受けていた。小学生の頃の不登校を経てかなり繊細になってしまった私はそれに耐えられなかった。授業で当てられる度に答えられないのが怖くて、小テストでも赤点を取るのが怖くて、友達に頭悪い奴って思われるのが嫌で、結局また学校に行かなくなってしまった。
ここから私は嫌なことからは全て逃げるようになってしまう。

長々と語ってしまったけれど、この様な生活が結局高校卒業まで続いてしまったため、ろくに授業を受けてないし勉強もしてない、純粋に頭が悪い人間が出来上がってしまったのだ。そりゃあまともに勉強してないわけだから偏った情報しか持ってない空っぽ人間が生まれるのは至極当然のことだろう。

(何か一つの意見に対してそれを自分の中で討論させるような知識を持ち合わせていない所以の)自語りが長すぎて何の話をしていたかよく分からなくなってしまったけれど、自分の軸がないことの根底は単純なそういった理由からだと思う。

2つめの理由として挙げた対人経験の無さに関しても同じ理由を適用できる。
単純に学校に行ってないから普通の人より人と話す経験をしてない為対人経験が無く、様々な意見に触れたり、意見を比較し合って討論する機会がなくなり、自分の意志、意見というものが無いまま成長してしまったのだ。


要するに、今の社会で正しく生きていく為には学校は必要なものだったと19にしてようやく気づいたのだ。
私の大好きな『銀の匙』という漫画の中に、「生きるための逃げはアリです。アリアリです。」という台詞があるが、逃げるというのは本当に生きるための時に使うものだな、と今になって思う。何事からも逃げていると、逃げた先でも逃げたくなる。どこにも留まっていられなくて、一人で、与えられた場所に文句ばかりを言う最悪な成人が爆誕してしまう。
これは来年から進学する私の決意を込めたnoteでもある。(と、今決めた)
簡単には逃げない、ようにしようという決意。

私は今まで、「「限界になったら逃げな」と言ってもどこが限界なのか分からないし、限界が来てからじゃ遅いでしょ」とか言って色々なものから逃げていた。限界が来てから逃げるのは遅い、それは間違ってないだろう。ただ、私は目先の辛さにしか目を向けていなかった。ここで逃げた場合と、ここで踏んばって勉強をした場合、どっちが後々楽になれるかを考えられていなかった。もう過ぎたことだし、まだ幼かった自分に全て正しい選択が出来る訳はないけれど、人生を甘く見ていたなと強く感じる。
でもやっぱ難しいよね、まだ踏んばって勉強したら後々楽になれる!と思って頑張ってたらいつの間にか限界を超えていてもう動けなくなっていた、が一番怖いし。自分はそこそこ頑張ってたってことにしようかな。

私が自分を持つために今できる事は、やっぱり読書かな、と思う。他の人がしてきた事を経験してない分、私はより多くの意見を目にしなければいけない。そうやって数をこなすうちに自分の軸を見つけていければいいな。逃げないで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?