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けれど、この多様性の社会に向き合おう:2020年の「多様性」との付き合い方
【この記事はVi-Crossマガジンに収録されています】
「多様性」あるいは「ダイバーシティ」という言葉が、世間のあちこちで聞かれるようになって久しいですね。
もっともそれがどういう意味を持ち、またそれが何をもたらすかを実感として持っている人はごく少ないのではないでしょうか。漠然と外国人やセクシャル・マイノリティを壁を設けず受け入れること、ぐらいに思っている方が大半ではないかと思います。
けれども「多様性」というものは、実は思いの外、私たちにとって身近な話題です。「多様性」にも性的多様性、人種的多様性と色々ありますが、なかんずく意見や価値観の多様性というものは、私たちが日常的に接している多様性ではないでしょうか?
人がいれば人の数だけ意見がある。会社や学校、SNSを見渡してもそれを感じる例には枚挙にいとまがないでしょう。
今回は、先日のVi-Crossマガジンのスシテンコ先生の「多様性」をテーマにした記事について思うところがあったこともあり、この「多様性」といういささか抽象的なテーマを取り上げて、「そもそも多様性とはなにか」「なんのために必要なのか」といった議論の整理と、この2020年の世情を鑑みた私なりの考えを述べてみたいと思います。
◆そもそも「多様性」とは何か
冒頭から抽象的な話をし始めるのは私の悪い癖ですが、何しろ今回は少々主語の大きな話をするので、ご容赦ください。
また今回はテーマの関係から、社会的な多様性、特に「価値観の多様性」に絞ってお話を進めます。
多様性のある状態とは、一般に違う種類ものが併存することをいいます。
つまり価値観の多様性とは、「この価値観が正しい」という唯一あるいは少数の価値観が世界を支配するのではなく、多くの様々な価値観がありながらも、それらが併存している状態であるといえましょう。
もう少しかみ砕いた個人レベルの表現でいえば、先に引用したスシテンコ先生の記事の表現が肌感としては分かりやすいでしょう。
「多様性」とは、すなわち「自分とは違う存在を理解すること」にあると思う。また「他人とは違う自分を認めてもらうこと」でもあるはず。
そうしてお互いを理解しあって「共存」することは、イメージしやすい多様性社会の一つの形でしょう。
もっとも、「お互いを理解する」ことは、実は多様性には必ずしも必要ではありません。これが今回の主題の一つなのですが、それについては後ほど触れましょう。
さて、昨今この「多様性」、ダイバーシティ(Diversity)の重要さが国や企業を中心に盛んに言われますが、そもそもなぜ多様性は大事にされないといけないのでしょうか?
これについては明確な理由があります。
つまり多様性とは、変化の源だからです。
例えば、誰もが同じ価値観…好きな物、嫌いな物、文化や作法といった、あらゆるものの考え方が同じである集団を考えてみましょう。
この集団の中では、絶対に衝突は生まれません。なぜなら考え方=意見の違いがないので、何を言っても必ずお互いに「そうだね」と同意して終わるからです。
これは一つの平和の形でもありますが、同時に変化の消滅を意味することにお気づきでしょうか?
誰一人「いや、それは違う」「こっちの方がいいんじゃないの?」と、異なる意見を言わない集団では、新しい考え方が生まれえない…つまり何一つ変化することなく、したがって新しい物は生まれてこないのです。
社長と違う意見が全く認められないワンマン会社なども、ある意味でこれに近いでしょう。
ひるがえって、私たちが目にしている、例えばスマートフォンが社会そのものの在り方を大きく変えている今の時代は、そうした新しい考え方、あるいは新しい夢やビジョンを持った人たちという「異質」な存在が刺激を生み出し、世界を揺り動かした結果です。
私たちにとって多様性とは、「ちがうもの」からの刺激とは、変化し、新しいものを生み出していくために必要不可欠なものなのです。
裏を返せば、もし多様性が失われると、その集団は新しいものを生み出す力を失います。それは国家や会社であれば活気や競争力の喪失につながり、インターネットコミュニティであれば「なんだか最近つまらない」「面白くなくなった」という声とともにメンバーの減少、ひいてはコミュニティそのものの衰退と消滅に至ります。
その観点で「○○はこうであるべき」という言説は、おしなべて長期的な視点では有害であると言えます。
もちろん、私の所属するVTuberという一つのコミュニティにとっても同じことが言えるでしょう。私たちは自分と異なるえを排除することなく、一つの考えにこだわることなく、常に新しいものを受け入れ、変わっていくことを肯定すべきなのです。
多様性とは変化や革新の源であり、ゆえにどのような場においても必要であるということを、なんとなく理解頂けたのではないでしょうか?
◆価値観の多様性にまつわる実例
こうした「多様性」が変化を生み出した例は、他にも私たちの身の回りにたくさんありますが、その一つが「ニコニコ動画」でしょう。
特に2007年ごろの黎明期から2010年代にかけて、日本のネットカルチャーの中心ですらあったニコニコ動画では、それまで2chをはじめとしたネットの各地で育まれてきたネットカルチャーや、音楽やアニメ、ゲーム、映画、時には怪しげなコンテンツまでもが混ざり合い、様々な新しいサブカルチャーが生まれました。
象徴的な例が、ただの音声合成ソフトであったVocaloidが、初音ミクの発売を機に、ただの音楽に留まらない絵、動画、キャラクターイメージまでが一体となった新たな一個の創作ジャンルを生み出し、ひいては現代のVTuberのような「バーチャルな存在」のご先祖様となったことでしょう。
これは本来別のジャンルであり、混じりあうことが無かったもの同士が、ユーザーの「とりあえず混ぜてみよう」という悪ふざけがもはや文化といえるまでになった、ニコニコ動画という混沌のるつぼで攪拌された結果として生まれたものです。
異なるものが併存した「多様性」のある状態で、さらにそれらが混ざり合うことで、初めて変化が生じるのです。
逆に多様性を失った集団がどうなるかという実例が、2010年代後半からの、ネット上でのいわゆる「リベラル」なクラスタであるといえます(一部の方から反発を招くのは覚悟のうえで、一定のデータ的裏付けがある好例としてここで引用します)。
日本経済新聞の「ネット民意 動かすのは誰」という記事によると、SNS上の様々なクラスタについてRT数、どのコミュニティの情報をRTしたかの割合(クラスタ内から・クラスタ外から=コミュニティの内向的/外向的の指標)などをビッデータを調査した結果、いわゆるリベラルクラスタでは他よりも圧倒的にRT数が多く、またクラスタ内部でのRTが特に多い(同じ政治志向の保守クラスタに比べても1.6倍)ことが判明しています。
同質的な意見がことに強調される一方、外部からの異なる意見の流入が少なく、意見の多様性が他クラスタと比べて大きく損なわれていることをデータが示しています。
ネット民意 動かすのは誰https://t.co/nreXAQl4Lz
— トイレすっぽんラバーカップ (@Conscript1942) August 7, 2020
>東京大大学院の鳥海不二夫准教授、データ分析会社のホットリンクの協力を得て日本のツイッター上の投稿状況を分析
うわぁー・・・こういう現実を数字で出すのは・・・「リベラル」に対する非人道的行為なのでは・・・? pic.twitter.com/H7o2HAgWX3
またこうした意見の多様性が損なわれ続けた結果、異質な意見を受け入れる素地が失われ、さらに多様性の喪失を強化し先鋭化していく悪循環が起こっていると考えられます。
いうなれば、先程例に上げたワンマン社長が他の意見を認めない会社と同じで、「場の空気」が異なる意見を封殺していくのです。
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「自分と同じ意見」しか見えなくなっている
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判断能力に優れると自負する左派・リベラル派の人びとは(中略)史上最長の政権となったアベ政権への憤懣のあまり「自らと政治的主張、社会的価値観が異なる者」のことばに耳を傾ける余裕が失われている。「ただしくない者を支持するような者のことばなど聞き入れるに値しない」と、最初から相手にしないのである。そうしてオンライン上でも同質的な意見のみをシェアしたり拡散したりしてエコーチャンバーを構成し「一般層」との乖離を深め、さらに憎しみと怒りを蓄積するという悪循環に嵌はまりこんでしまっている。
このように意見、価値観の多様性とは、一度失われてしまうと取り返しがつかなくなってしまうものでもあるわけです。その先に待つのは、既に述べたように変化の消失と停滞と衰退の袋小路以外ありません。
多様性が巡り巡って私たちにどういう影響を及ぼすのかを、この二つの例からも感じられると思います。
◆多様性の不都合な側面
しかし一方で「多様性」には不都合な側面も確実にあります。
それは決して無視できず、大きな痛みをもたらすものです。
それゆえに、社会は今まさに多様性を許さず、不寛容と均質化に向かっている局面にあるように思われます。
一体、多様性の何が私たちにとって不都合であり、社会を多様性の排除へ動かしているのでしょうか?
一言でいえば、その原因は「異なる価値観を持つ相手と一緒にいなければならない」ということそのものにあります。
これもまた、度々引用するスシテンコ先生の記事の記述が分かりやすいので引用しましょう。
(ネット社会含む)現実では、これ[お互いの価値観を理解し認めること]が死ぬほど難しい。
自分とは異なる価値観の者を「敵」とする人間が、あまりにも多いからだ。
それもそのはずで、自分が今まで大事にしていた価値観、あるいは生活・日常というものを、無断で侵略してくる可能性があれば、人は自ずと防衛する。
新たなる価値観に自分が変化を余儀なく迫られるリスクを思えば、危機因子である異質なモノは排除した方が手っ取り早いからだ。
自分と違う存在を否定すれば、自分の居場所は守れる。
だから、敵は排除すべきなのだ。
このように、異なる価値観を受け入れるということは、自分のうちに異物を受け入れることに等しいです。それは本能的な拒否感を招きます。ゆえにそれを押さえつける理性なくして、異なる価値観を持つ者が互いに理解しあうのは困難です。
私たちは、ともすれば「分かりあう努力をするより、相手を排除して均質化してしまうのが楽だし、心地よい」という安易な結論に流れやすいのです。
(下記の記事でも「批判」を「攻撃」と受け取りがちな人間の難しさについて述べています)
ここではその一例として、日本での外国人の居住問題を取り上げてみましょう。
一般的に外国人の方は、日本で賃貸物件を借りることが難しいです。下記の記事では2006年には外国人の96%が家を探す際に一度は入居を拒否されたことがあるという、驚きの調査結果が取り上げられています。
外国人の96%が「入居拒否」されていた! 今でも日本で部屋を借りづらいのか?
https://www.rakumachi.jp/news/column/131168
この問題の根本には、外国人と日本人の価値観の違い、あるいは「常識」の違い…例えば、ゴミ出しの仕方や「これ以上は迷惑だな」という騒音に対する認識の違い、敷金礼金などの商慣習の違いなどがあります。
そうした「日本の常識」を言葉の壁にもめげず根気強く説明して、理解し納得してもらわないと、外国人の方との間にはトラブルが起こることが避けられません。
これが「異なる価値観のものが分かりあう事の困難さ」の実例です。
ではその結果、人はどうするか?
大抵の場合、「そういう人たちには来てほしくない」と面倒を避け、排除を選ぶわけです。そうすれば「常識」をわきまえた日本人だけを相手にすればよいですし、たとえ説明が不足していてもトラブルも起きづらいです。
まさに「分かりあう努力をするよりは、相手を排除して均質化してしまうのが楽だし、心地よい」のです。
このように、多様性を大事にし、たとえ「異物」であっても受け入れることとは、面倒や困難、不快さを伴います。それに得てして大多数の人間は耐えられず、最終的に排除を選びます。
つまりこれが「たとえ”異物”であってもそれを受け入れる」という多様性社会の裏の顔であり、負の側面です。
同じようなことは日本だけでなく世界中で、そしてその縮図であるインターネットでも問題になっています。
それはグローバル化やSNSが、異なる国の人々、つまり大きく異なる価値観を持った人たち同士が混ざり合うことを後押ししたからです。ヨーロッパでの移民排斥は、まさにこうした時代の潮流への反動でしょう。
あるいは先日の「VRアバターは人身売買」事件も、まさにその一例でしょう。VRクラスタとフェミニズムクラスタという、元来交流のなかった集団同士がSNSという境界のない世界で否応なく混ざり合ってしまった結果、お互いに大きな反発を生み、こうした騒動が起きたのだと言えます。
「異なる者同士が混ざり合うことで新しいものが生まれる」という多様性の光の側面は、その感情的な反発を退けるだけの互いの理性的な対応あって初めて発揮されます。
上記の例からも分かるように、こうして異なる価値観同士が無秩序に混ざりあった果てにあるのは、結局反発と排斥だけです。
しかしそれを嫌って交流を避ければ、そこに待つのは先に紹介したインターネットリベラリズムのように異論を許容できなくなり、より多様性を失っていく悪循環であり、「全く同じ価値観の集団」のような変化のダイナミズムを失った世界であり、その先には停滞と衰退しかありません。
では、そうしたジレンマの中で、私たちはいったいどうしていくべきなのでしょうか?
◆多様性を大事にする社会の姿とは
混ざり合わねば変化は生じない。
混ざり合えば価値観の相違と相互理解の難しさが排斥を生む。
この二律背反を解決するにはどうすればよいのか。
結論から言えば「住み分け」しかないと私は思います。
つまり、価値観の違うもの同士がお互いに「領土(クラスタ)」を持ち、混ざり合うことなく併存するのです。ここで重要なのは、目指すべきは「共存」ではなく「併存」であることです。
多様性とは、異なる種類のものが失われることなく保存されることです。ゆえに混ざり合うことなく分離した状態であっても、それは十分成立するのです。
もちろん理想的には、全ての人々が混ざり合ったうえで、あらゆる構成員がお互いを理解しようと努力し、尊重しあえることがベストです。が、それを望むのは現実的に難しいことは既に述べた通りです。
異なる価値観の者同士の相互理解とは、相手に対する十分な知識と、互いの理解をすり合わせる忍耐強さ、なにより対話を望む理性的な姿勢を両者が持ちあわせないと成立しえないからです。
Twitter上の異なるクラスタ間で交わされる不毛な議論の数々を見ても、それがどれほど稀有な条件であるかは一目瞭然です。
ゆえにこの2020年、私たちが多様性と向き合うにあたっては「住み分け」と「併存」こそが現実的な解答となるでしょう。
かつての2chは異なるカルチャーを持ったスレッドで分かれていました。混沌としたニコニコ動画にもカテゴリという仕切りがありました。現実世界では物理的な距離と国境が私たちを隔てていました。
その姿に戻るのです。
今のTwitterでも「クラスタ」、同質なユーザーの集団としてあいまいな形での住み分けは存在していますが、そこには良くも悪くも柵というべきものはありません。
そこに「国境」を作り、「領土」を与え、何らかの形で「国名」を付けて区切るべきなのです。そこから先は自らと価値観の異なる人々の場所だ、ということを万人が理解できるように。
ゾーニングは、まさにこの実例といえるでしょう。
例えば成年誌の売り場規制であり、例えば赤線地区やゲイタウンであり、あるいは外国人居留地や民族自治区であったり。
何らかの基準に基づいて線を引き、そこを境に目に見えない「価値観の境界線」を設けるゾーニングは、人類の歴史の中で生まれてきた異質な価値観の者同士が共存するための知恵です。
私たちは「自由」の美名のもとにただ境界をなくすことを無条件に是とするのではなく、この2020年においてこそ、適切に境界を設けることの正しさもまた心に留めるべきでしょう。
たとえそれが時代の針を逆さに回す行為と非難されようと、大半の人間が相互理解の困難さに耐えられず、互いの排斥に走る以上、今はそうした消極的だが秩序ある時代へ戻る勇気が必要なのだと私は思います。
私の別の記事でも取り上げましたが、Twitterの将来的な分散化というニュースはこの象徴と言えます。
Jack Dorsey(脚注:Twitterの創始者)の提言 [上記記事より]
(中略)
・中央集権ネットワークでは悪意あるツイートを1つのルールによって管理するのは不可能である。
・SNSは怒りや論争に注目が集まりすぎる傾向にあり、健全に管理するのは困難である。
(中略)
・ブロックチェーンという誰にでもオープンな技術を得たことにより分散SNSを実現する目処が付いた。(後略)
私の記事:全てがVになる:VRが変える私たちの社会、2050年のその姿(中編)より
Twitterという、世界中の価値観がひとつに集まるといってよい空間が、ついにその「ひとつの世界であること」が、かえって怒りや論争を激化させることを認めたこと。そしてそれを避けるために分散化…つまり、対立し合う人達同士は遠ざけるしかないという方針を選んだこと。
これは、実は物凄く象徴的な出来事であると、私は思います。
Twitter is funding a small independent team of up to five open source architects, engineers, and designers to develop an open and decentralized standard for social media. The goal is for Twitter to ultimately be a client of this standard. 🧵
— jack (@jack) December 11, 2019
…もっとも何度もお話したように、完全に住み分けがなされた状態では、また交流による変化も生まれません。それでは多様性の意味は薄れます。
だから住み分けが行われる一方で、その中でも望んだ人たちは他のクラスタと交流していくのを忘れてはならないでしょうし、人類にはそれを可能にする土壌があると思います。
同質な価値観に埋没する安寧から進んで飛び出す意思を持ち、分別を身に着け、理性的に相手を尊重し理解しようとする人たち。彼らこそが、次の時代に新しいものを生み出していくことができるでしょう。
かくして住み分けが上手く成り立った世界でこそ、同質な集団の中での平穏と、異質なものが混ざり合うことによる変化は、きっと健全に共存できるはずです。
そしてその世界では「国境」を跨いで異なる価値観の相手の領土に土足で踏み入り、無理解に意見を言う人間こそが「野蛮」と見なされるでしょうし、そういった相手にこそ初めて「排除」という選択肢が考慮されるべでしょう。
つまり私たちが理想とすべきは、いわば価値観の「専守防衛」だというのが私の意見です。
そして「どこまでが攻撃で、どこまでが防衛なのか」を明確にする意味でも、「価値観の国境」が必要なのです。
◆そして私たちにできること
少し話のスケールが大きくなりすぎたので、等身大な視点でも話をしましょう。とはいっても、個人のレベルになっても基本的な方針は同じです。
つまり価値観の異なる相手に対しては、私たちはお互いを理解しようと真摯に努力するか…あるいは、理解をあきらめて距離を取るか、という選択肢を持つことです。なんということはありません。いずれもが「相手を尊重する」というごく常識的な態度です。
相互理解が難しいのなら、互いを否定するのではなく、距離を取ることこそが個人レベルでの「住み分け」です。それは決して後ろ向きな選択ではなく、むしろ相手の価値観を尊重する一つの形と考えるべきでしょう。
そして特別な理由が無い限り、第三の選択肢として、相手を排除する、あるいは改心させようと迫ることは、やはり野蛮で傲慢なことであり、避けねばならないと私は思います。
一方で、こうして提言するまでもなく、世界はそうした「相互理解」と「隔離」の二極化へ進んでいくだろうというのが私の予想です。
なぜなら先に紹介したSNSの分散化や、インターネットと現実世界の境界の喪失が私たちの「世界」を仮想的に大きく広げつつあるからです。
私たちの世界は、かつての現実の限りある空間でお互いを気にする生活から、無限に広がる仮想空間で望まぬ相手とは無限に距離を取ることのできる時代へと移り変わりつつあります。
また、昨今のCOVID-19の流行により人と人が物理的にも距離を取るようになり、代わってインターネットを通じてコミュニケーションをとるという潮流は、この変化を間違いなく後押しします。
やがて今までの無秩序な交流の反動が、「価値観の国境」という形で現れてくるでしょう。その時、私たちはそれを「自由からの後退」ではなく、秩序ある形への回帰として受け入れ、異なる価値観を持つ人々の「領土」を尊重するべきだと、私は思います。
その先に、拙文で提案した「価値観ごとにクラスタごとに隔てられ、広大なネット世界に点在する島宇宙」のような世界の形があるのだろうと思いますし、また他方で私たちは時に「異なるもの」と交わる意思を胸に抱き、互いを尊重し理解し合い、新しいものを生み出していくことができるでしょう。
9割が白黒に別れて暮らす世界で、残りの1割がまだらとなって混ざりあえば、私たちはまだまだ未来に向けて進んでいくことができるはずです。
それこそがこの2020年、私たちが見据えるべき「多様性」社会のひとつのあり方、そして私たちの向き合い方ではないかな、と思うのです。
◆さいごに
いつものことながら、今回もまた長くなってしまいました。
今回は様々な実例を交えながら、多様性というものがなぜ大事なのか、一方でその裏にある問題点について述べました。
その上で、二律背反とも思われる多様性の功罪を私たちが上手く受け入れていくための方法について、私の意見を書きました。
皆さんはこれを読んでどう思われたでしょうか?
もちろん様々な意見があるでしょう。きっと同意以外にも、多くの異論・反論があるでしょう。それでよいと思います。
そうした異なる考えがあることこそが、お互いの思索を深めるでしょうし、よりよい未来のあり方の模索へつながるでしょう。それもまた多様性の為せるわざです。
ただ一つ、我々にとって誰かを否定したり排除したりするという選択肢は望ましいものではありえない、という一点においてのみ、皆さんと思いを同じくできるのであれば、これ以上望むことはないと、そう思います。
あなたも相手を否定し排除することなく、たとえ理解できなくとも「距離を取る」という形で、相手を尊重する気持ちを忘れずにいて欲しい。
そんな願いをもって、今日は筆を置きたいと思います。
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この記事は
”バーチャルを通して自分らしい生き方を見つけ出す”
Vi-Crossマガジンに収録されています。
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前回の記事:
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けれど、この多様性の社会に向き合おう:2020年の「多様性」との付き合い方https://t.co/uRripwAERy
— 思惟かね(オモイカネ)📕知識系VTuber@note書いてます🔔 (@omoi0kane) October 8, 2020
今週のVi-Crossマガジンのテーマは「多様性との付き合い方」。
様々な在り方を認める多様性社会は、変化と発展をもたらす一方で、多くの衝突をも生みます。
私達はそれにどう向き合うべきでしょう?
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今回も長文にお付き合いいただきありがとうございました。
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