ミャンマーで軍事クーデター 再び遠のく民主化への道(思惟かねのWeekly News 22 Vol.4)

この記事は、Youtubeで水曜日に放送している「思惟かねのWeekly News 22」第2回で放送した内容の記事です。

第2回のトピック
英国 TPP加入を正式申請へ 転機を迎える英国外交
ミャンマーで軍事クーデター 「不正選挙」訴え 再び遠のく民主化への道


ニュースの概要

さて、こちらは2月1日に入ってきたニュースです。
ミャンマーにて軍事クーデターが発生し、現政権の実質的最高権力者であり、ミャンマーの民主化の象徴でもあるアウン・サン・スー・チー氏を拘束。ミャンマー国軍が権力を掌握したとのことです。

今日はこのミャンマー軍事クーデターに至ったその経緯を辿りながら、再び先行きの険しくなったミャンマーの民主化の未来を探ります。


ミャンマーという国

さて、皆さんはミャンマーという国についてどの程度ご存知でしょうか?
正直、日本のお茶の間で話題に上がることも少ないので、名前は知っていてもどこにあるかもピンとこないという方も少なくないと思います。

画像1

ミャンマーは東南アジアの大陸側、インド洋のベンガル湾に面する国です。北に中国、西にインド、東にタイとラオスに国境を接し、日本の1.8倍の国土面積と、5000万人程度の人口を抱えています。
この人口の7割をビルマ人が占めており、公用語も彼らの言語であるビルマ語。残りの3割は10以上の少数民族が占めています。

ところで、先程出たビルマという名前に聞き覚えのある方もいらっしゃるでしょう。竹山道雄の作品である『ビルマの竪琴』の名前でも知られるように、以前ミャンマーはビルマと呼ばれていました。
正確には、未だに世界的には両者が併用されており、日本でミャンマーという表記が採用されているのは外務省の方針によるものです。今回もひとまずミャンマーという呼称で統一します。この辺りにも実は政治的な背景があるのですが、これも後ほど解説します。

画像2

さて、このミャンマーという国になぜ世界の注目が集まっているか?
ミャンマーは共和制国家ながら、長らく軍が実験を握る一党支配体制の国家でした。民主化運動の弾圧人権侵害などで国際社会から度々非難を浴びており、欧米諸国からの経済制裁も行われていました。
しかし根強い民主化運動が実を結び、2016年になってついに民主的な政治体制が成立したという経緯があります。


ミャンマーの歴史:民主化と軍政で揺れた近代史

少しミャンマーの歴史を振り返ってみましょう。

19世紀以降、イギリスとの三度の戦争を経て、ミャンマーは英領ビルマとしてイギリスの植民地となりました。
転機が訪れたのは太平洋戦争の折。南方作戦の一環として日本軍がビルマへ進撃し、現地イギリス軍を駆逐したことでビルマは日本の影響下に入りました。
この時、ビルマで義勇軍を率いてイギリス軍と戦ったのが、現在もビルマ建国の父として讃えられるアウンサン氏。冒頭に紹介した、アウン・サン・スー・チー氏の父です。

画像4

のちに日本軍の敗色が濃厚になると、アウンサン氏はクーデターにより政府の実権を掌握。悲願のビルマ独立のため、イギリス軍と呼応して連合軍へ参加。
戦後も依然支配を続けるイギリスと粘り強く交渉し、ついに独立を勝ち取ります。しかしアウンサン氏自身はビルマの独立を見ることなく、ビルマ独立の半年前に1947年に暗殺されました。

その後、1948年に独立を果たしたミャンマーは議院内閣制の民主主義国家となりますが、1962年、再び軍事クーデターにより社会主義軍事政権へと変化します。軍事政権下では民主化運動は弾圧されましたが、国民の不満は高まり続け、ついに1988年にビルマ全土での大規模デモが発生。

1988年8月8日に行われたために8888民主化運動と呼ばれるこの大規模デモの中、その先頭に立って演説を行うなどして存在感を発揮し、ミャンマーの民主化運動の象徴として知られたのが、当時欧米への留学から帰国していたアウン・サン・スー・チー氏でした。

画像3

しかしこの大規模デモの最中、現政権に対してまたもや軍事クーデターが発生。実権を掌握した新政権により、数千人が殺害されるほどの徹底的な民主化運動への弾圧が加えられ、8888民主化運動は終わりを告げました。
この新政権は名目上、総選挙による民主化を約束しました。この選挙に向けてアウン・サン・スー・チー氏は国民民主連盟NLD)という政党を作りますが、これを恐れた政権は彼女を自宅軟禁。にもかかわらず1990年に実施された選挙でNLDが圧勝すると、政権側はその選挙結果を受け入れることを拒否し、再び民主化勢力の弾圧を開始します。
こうした政治的混乱の中で、1991年にアウン・サン・スー・チー氏にノーベル平和賞が送られるなど、ミャンマーの民主化運動は世界中から注目を集めました。

なおこの時代に、ビルマ連邦は国名をミャンマー連邦へと変更。このため、日本ではビルマはミャンマーと呼ばれるようになりました。
一方欧米などでは、こうした非民主的な政府への非難から、ミャンマーという国名を認めず、ビルマという名前を引き続き使うか、併記することが多いのです。

画像6

その後も軍事政権と民主化運動のせめぎあいは続きますが、2008年には憲法の制定、2010年にはこれに基づく総選挙が行われてついに軍政が終了、民政の新政権が樹立されました。
これは長年経済制裁にさらされてきたミャンマーが、成長のきっかけとして外資を呼び込むため、国際社会の厳しい眼差しを緩和するべくとった民主化政策であると考えられています。
しかし依然、憲法の規定に基づいて議会の1/4の議席が軍に割り当てられるなど、表向きでは譲歩しつつも実際の権力は軍が握るという色合いが強く残っていました。

しかし2015年の総選挙により、アウン・サン・スー・チー氏が率いるNLDが再び圧勝
軍政時代に決定された2008年憲法により、アウン・サン・スー・チー氏自身の大統領就任はなりませんでしたが、彼女の側近が大統領に就任。軍人出身でない大統領は54年ぶりのこと。30年近く民主化運動の先頭に立ち続けた末、ついにアウン・サン・スー・チー氏が実質的に政権を握ることとなりました。

画像5

こうした中で、2020年11月に再び総選挙が行われますが、またもアウン・サン・スー・チー氏のNLDが大勝
しかし今までの経緯から、国外からの選挙監視団も受け入れていたにも関わらず、支援する政党が大敗した国軍はこれを不正選挙であると主張

かくして国内での緊張が高まっていましたが、ついに議会が招集される2月1日に国軍による軍事クーデターが発生。これが今回、大々的にニュースとなりました。
ミャンマーの民政は、わずか10年で一旦幕を閉じることになったのです。


クーデターの行末は?:鍵になる国際社会の反応

歴史を振り返ると、ミャンマーの近現代史とは度重なる軍事クーデターにより生まれる軍事政権と、それに対する民主化運動のせめぎあいであることが分かります。
その背景には、1962年の社会主義軍事政権時代から国内の権益と深く結びつき既得権益者となった国軍が、国防を名目に明に暗に権力を握り続け、民主化に強く抵抗してきたことがあるのですね。

こうしたことを避けるため、通常民主主義国家ではシビリアン・コントロール文民統制を敷いて、軍が政治的な権力を持つことができないように制限しています。軍とは武力という実行力を持つだけに、その濫用をいかに避けるかが、近代的な政治体制の重要な問題なのです。
これに失敗していた例として、ミャンマーの他、戦前に軍部大臣現役武官制を敷き、統帥権干犯問題などから、軍の大規模な政治介入を招いてしまった大日本帝国の例が挙げられるでしょう。

画像7

アウン・サン・スー・チー政権は、ゆくゆくはミャンマーにも文民統制を敷き、国軍から政治的権力を手放させることを目論んでいたでしょうし、2020年の選挙結果を受けてその動きを加速させるつもりだったでしょう。
ミャンマーで国軍がこうした暴挙に出たのは、まさにそれを食い止めるためとみて間違いありません。


さて、このミャンマー情勢は今後どうなっていくでしょうか?

ミャンマーにおける国軍は、つまり既得権益と一体です。彼らが今後どのような背策を取るにせよ、ミャンマーの民主化運動が再び激化することは避けられません。そうなれば、これも歴史のとおり、民主化運動に対する軍事政権による弾圧が起こることもまたほぼ確実でしょう。

このような情勢となれば、欧米各国からの経済制裁が再び行われる可能性が高くなります。
が、一方で問題を難しくしているのが、隣国である中国の存在です。

前回の英国外交についてのニュースでも扱った通り、中国は一帯一路構想の元に海洋進出を強めています。そして地図を見れば分かる通り、中国にとってミャンマーはまさにインド洋に繋がるルートそのものなのです。

画像8

事実、中国はミャンマーを重視しており、経済的にもミャンマーとの貿易額は世界一である他、ガス・原油を輸送するパイプラインをミャンマーに敷設して資源を輸入しています。

そして欧米諸国がこぞって避難した香港でのデモ弾圧にも見られる通り、中国政府は非民主的な価値観を持つ政府であり、ミャンマーの軍事政権と協調路線を取るのはほぼ確実と見られます。
事実、このクーデターについての国連安全保障理事会での非難声明についても、中国とロシアの反対により採択が見送られました。

TPPを軸に環太平洋諸国、そしてインドと連携し、中国の封じ込めを狙う日米壕印(クアッド)の外交戦略に対し、ミャンマーを取り込むことによるインド洋ルート開通は、まさに中国の裏口戦略となりうるのです。

ミャンマーは建国以来、独立志向が強く、他国からの影響を嫌って伝統的に孤立外交を選ぶことが多い国です。そのため中国との関係についても、ある程度の歯止めが掛けられていました。
しかしここで欧米諸国からの経済制裁が行われると、各国からの投資によって経済が勢いづいたミャンマーは、その経済を維持するためにより深く中国に依存せざるを得なくなります
その結果、ミャンマーが中国軍のプレゼンスの拠点となることを許してしまえば、日本を始めとする各国の対中国戦略のアキレス腱ともなりかねません。特にそうなった時、中国の圧力を一国で正面から受けることになるインドにとってはかなり大きな政治的プレッシャーです(地図を見ればミャンマーがインド洋に面していることが分かりますね)。
このため、各国は実際に経済制裁などの思い切った動きに出ることができない可能性があるのです。

画像9

とはいえ、ミャンマーの軍事政権が2008年の憲法制定、総選挙などの民主化政策をとったのは、ひとえに経済発展のために外資を求めたからでもありました。
経済という外交カードが、現実に有効であるのは間違いありません。国際社会は非常に難しい舵取りを強いられることになります。

今後、ミャンマーの民主政治の行方がどうなるか。
もし外交バランスから国際社会からの援護が期待できないとしても、おそらく歴史は繰り返し、やがてミャンマーに再び民主政権が生まれる日は来るでしょう。しかし、それが何年後、あるいは何十年後の話になるか?

こうした関連諸国の外交と合わせて、今後ともミャンマーでのクーデター政権の行方を注視する必要がありそうです。


Virtual Broadcasting Center、VBCの思惟かねがお伝えしました。

--------------------------------------------------------
なお文中画像は全てWikipediaより引用・改変して利用しています。
--------------------------------------------------------

この他にも技術・政治・科学ニュースの解説や、VRやVTuberに関する考察記事を投稿していますので、お時間あればぜひごらんください。

また次の記事でお会いしましょう。
--------------------------------------------------------
今回も長文にお付き合いいただきありがとうございました。
引用RT、リプライ等でのコメントも喜んでお待ちしています。

画像10

Twitter: https://twitter.com/omoi0kane
Youtube: https://www.youtube.com/channel/UCpPeO0NenRLndISjkRgRXvA
Medium:https://omoi0kane.medium.com/
Instagram: https://www.instagram.com/omoi0kane/
Facebook: https://www.facebook.com/profile.php?id=100058134300434
マシュマロ(お便り): https://marshmallow-qa.com/omoi0kane

○引用RTでのコメント:コメント付のRTとしてご自由にどうぞ(基本的にはお返事しません)
○リプライでのコメント:遅くなるかもしれませんがなるべくお返事します




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?