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意味の浮遊とネガかポジ

慌ただしいときほど、猫たちが騒ぐ。集中したい作業があると、メシをくれ、外に出せ、撫でろ、トイレ掃除を、などと5匹が各々の性格を発揮し声色を変えそのボリュームに緩急をつけミャアミャア訴えてくる。たとえ、𠮟ったところで言うことなど聞くわけもない。

アンコントローラブルな存在との共生というのは学びが多い。いや、学びというよりかは、制御できない一つひとつにカリカリせずに、性質として、自然として、受け入れなくちゃ、という前向きな肯定なのかもしれない。

このアンコントローラブルが身近にあるかどうかは、暮らし方を考えるときに無茶苦茶影響するように思う。自分の場合、幸運にも、育ったのが小さい島だったから、海や山、そしてそこらに棲みつく生き物が身近だった。台風でフェリーが止まれば、スーパーの棚にはものがなくなる。それはしょうがないことだ、ときっぱりと受け止めるメンタリティを養ってくれた。

地方で暮らすというのは、都会と比べると少々~かなりアンコントローラブルなもの数が多い。それを良しとするか悪しとするかも人間の性分、あるいはこれまでの生育環境に左右され、皮肉にも「相性」という一言で片づけてしまえる可能性だってある。

まあ人間だってどんなに好いていようが、相性の悪さでこれ以上は近づけないぜ、という距離はある。地域も人も似たようなもので、うまく付き合っていく方法を考え続け、処世術を学ぶことなのかもしれない。

と、前置きが長くなってることに気づきつつ、やっと昨日の「なぜ油断させないのか?」の続きをば。

意味が浮遊する言葉

「まちづくり」のように、それ掲げてしまうことで、委縮させてしまう言葉というのがある。言葉は、創造の手助けにもなれば、反対に、創造を止める、それどころか壊す道具にもなりうる。

よく意味がわかってもいないのに、まわりが使っているから、使わなくてはいけない風潮だから乗っかてはみるものの、やはりよくわからない。「まちづくり」が目的で集まっているおっちゃんらにその意味を聞いてみても、本人たちもよく分かっていないか、「イベント等で盛り上げること」くらいとしか答えない。じつに、意味が浮遊する言葉なのだ。

そのわりには、良いとされること・なんか仰々しいことをしないといけないという緊張感を持って、集まってくる人が実になんと多いことか。そんなガチゴチな脳みそを寄せ集めても、当事者性&楽しい&アクティビティは生まれにくい。「義務」が勝利し、その犠牲に奪われるエネルギーと時間。ついには疲弊して二度と関わらないという選択にもつながる。

自分がその言葉を扱うことで、相手がどのような影響(心理状況)を与えるのか、はローカルで動くうえで一番最初に丁寧に考えておきたいことである。

言葉に対するネガティブ・ポジティブ

ふとライター時代のことを思い出した。

ぼくが先輩から学んだことで「なるほど」と思ったことがある。

「自分が記事で扱う言葉(単語)に対して敏感であること。その言葉を目にしたとき、読者にどんな印象を与えるだろう? それをネガティブに捉える人か、あるいはポジティブに捉える人か、想像してみる。この記事を届けたい人にハマる言葉選びをしないと刺さらないよ」

そんなニュアンスのことだった。

よーく考えてみれば、当たり前のことなのだ。「恋愛」「稼ぐ」「ボランティア」という言葉だって、人によって印象が大きく異なる。ぼくは「まちづくり」と聞いて「ケッ!」と思うタイプだから、わりとネガティブに受けとる方だったし、それにもちゃんとした経験/背景はある。立場が違う人であれば、受け取りが違うのは当然で、そのことに鈍感なまま言葉を扱うとそりゃあ想像力の欠如と言われても仕方ない。

その言葉を扱う自分の頭の中にある意味は、一度切り離したうでえで言葉を精査する。逆に言えば、自分の頭の中にある意味をベースに言葉を扱えば、すれ違いは死ぬほど起こる。

そして「油断」の話に戻ると、意味が曖昧だったり、警戒するような言葉は極力殺して、まったり解れるような言葉を扱って、いっしょに物事をつくっていけたほうがいいと思うだ。まあ、言葉にばかり注意がいって手が止まったり、本質を見失ったらホンマツテントウ虫ではあるんだけど。何事もバランスですよねー。

わからないから動き考え続ける

長ったらしくなってしまったが、超ざっくり言えば「自分が扱う言葉には繊細でありたいよね」という凡庸な話である。ローカルで動くとき関わる人が、自分が扱う言葉に対してどう感じとるのか、そう感じるようになった背景はなんだったのか(←特に大事)、に敏感になりながらコミュニケーションしていく。言葉の論理が大事なんじゃない。その言葉に対する感情が重要なときのほう多いのだ。不思議なことといつも慌てふためきながら。

そして、考える。

まちづくり的なものにぼくは関わらせてもらってはいるけども、未だに「まちづくり」というものがやっぱり何だかわからない。だから、ぼくは自分から「まちづくり」という言葉を挙げることはしないし、てか、できないし、その意味について考え続けなくちゃいけないのだと。

たぶん、「まちづくり」の意味がわかった!という時点で、現象としてのまちづくりも詰んでしまっている気がする。あくまで問いかけ、仮説をもち、検証のための実践を積んでいくことがぼく(ら)が求められていることなんじゃないだろうか。

さて、、じつは、「なぜ油断させないのか?」にはまだ続きがあって、やっと言葉編が終わり、コミュニケーション篇がある。「困っていること」を引き出そうとするリスクについて。それはまた明日以降のどっかにて。2000字超えるなんて聞いてないぞ!(おいらのさじ加減か...)

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